海老屋のバンちゃんは、店の番頭だからそう呼ばれている。市場の近くの中学校に通っていた頃そこの番長だったからだともいわれているが、誰もよくは知らない。築地で働きだしてからかれこれ二十年、六丁目にあるちっぽけなパチンコ屋の二階に一人で住んでいて、毎日が仕事を午で終え眠りにつくまで飲む。大抵は外で飲んだが、市場の仲間とは連るまずにいつも一人だった。たまに映画を観るくらいでパチンコも競馬もやらない。女もいなかった。
 きょうは土曜なので、店で軽く酒盛りをやったあと湯を浴び部屋ですこし眠った。夢がいいところまで進み、このまま続きをみようかどうか考えていたが、もそもそと万年床を這いだすと胡坐をかいた。ラッキーストライクに火をつけたが、しばらくのあいだ頭を垂れたまま動かない。夜明け前につくったコーヒーの冷たい残りをすすり、ラッキーストライクを根元まで吸いつけてどうにか腰を上げる気になってきた。
「一日の義務はちゃんと果たさないとな」
 誰かに語りかけるような独り言をいいながら、桃味をおびた白い肌のうえに開襟をだらしなく羽織った。
 十畳間の引き戸からはいきなり階段になっていて、屋根に立てかけた梯子のような急勾配がそのまままっすぐ景品交換所の横へ出ている。つっかけを履き勢いよくおりると、目のまえに練り物屋のトラが玉を弾いていた。
「どうだい戦果は」
 バンちゃんが声をかけるとトラは、鉢の開いた頭についてる小さな目を盤面に向けたまま足もとの千両箱に右足をのせた。
「みてのとおりよ。どこいくんだい?」
「懺悔さ」
「オーシャン≠ゥ。女もおいてねぇとこなのにご執心なこった。おれもあとで
旅87 築地のスキャット
(87・某月・某日書く)
しグラスの底に沈んだ。ピアノはウィントン・ケリーに変わっていた。
「いちばん遠い場所って…おまえ、どこだい?」
「…ん、ナニ?」
「いちばん遠い場所だよ、おまえにとっての」
「…さぁな…立川かな?…いまんとこ。おめぇは?」
「…故郷だ」
「……」
「いちばん遠くにあるんだ」
「帰りたいのかい?」
「……」
 マスター、こいつを一杯飲み干したら、おれは神になれるかな。それとも、心に眠る傷跡を、やさしくあやしてくれるかな。どうせ、あいつもこいつもみんなおんなじ罪人さ。だから毎晩ここへ来ては、あんたの前にひざまずくのさ。ちょっと一杯やりながらな。ねぇマスター、おれはイイ男かい? おれの、あんなにたくさんいた仲間たちは、どこへいっちまったんだろう。ねぇマスター、おれがいつさよならを言ったというんだい? おしえておくれよ、ねぇ、マスター…。
「曲はダークアイズ≠セが、おまえさんの目は碧いな」
 その嘲弄に満ちた言葉に二人はハッとなった。バンちゃんの顔は瞬く間にこわばり、酔った体を止まり木から下ろすとそのまま外へ出ていった。
「親父っ、そういういいかたはねぇだろう。やつにはやつの事情ってもんがあったんだろうよ」
「なに、かまやしないさ。築地はなんでもありなんじゃなかったのか」
「でもよ、かわいそうじゃねぇか。昔、やつと最初に会ったとき おれ、こんな顔してっけど、英語ゼンゼンしゃべれねぇんだ=@って笑いながらいわれてよ、それ聞いたらなんかかわいそうでな」
「泣き言をいう人間が嫌いなんだ。さぁ、店はもう仕舞いだ、おまえさんも帰ってくれ」
「ちぇ、ヤナ野郎だぜ」
 トラは止まり木を下りながら、飲代をカウンターに叩きつけた。
「それから一つ教えておいてやるが、やっこさんがいつも唄ってるのはデタラメの歌なんかじゃない」
 ドアに手をかけたトラが肩越しに主人を睨んだ。
「YOU CANT GET AWAY≠竄チこさんの好きなケリーの曲だ」
 主人の、思いもかけない達者な発音にトラはたじろいだ。
「ど、どういう意味だいっ」
「そうだな…おまえたちは築地から逃げられないって曲だよ」
 トラは店を出るとバンちゃんの後を追った。灯りのないところなのでどこへいったのかわからない。
「帰ったかな」
 すると闇の向こうでいつもの出鱈目な、いや、YOU CANT GET AWAY≠フスキャットが、出口を探して泣いていた。


                                おわり
 
「バーカ、じゅうぶん飾ってるよ」
 トラは鉢の開いた頭を揺らせてバンちゃんの隣に座ると、焼酎、と主人に声をかけた。
「おっ、ジャズだな、ジャズもいいな、こいつを聴きながら泣くんだよな」
「おまえ、ジャズで焼酎飲むんじゃねぇよ」
「へっ、築地はなんでもありなんだよ。おめぇが仕事しながら唄ってる歌だってデタラメじゃねぇか」
 バンちゃんがやり返そうとすると、二人の会話に割り込むように、どん、とパスタが置かれた。
「おっ、うまそうだな」
 オレンジ色のソースの焼け焦げた匂いが、熱い湯気といっしょに紫煙と交ざりあい天井までのぼってゆく。タバスコの香りが花火のようにはじけると、オーシャン≠ノも酔いがまわりはじめたようだ。上気したアルコールのなかで軽快なピアノを、いい気持ちで唄っている。男たちの仕様もない話を、ゆりかごを揺らすように黙って聞いている。この店は逍遥歩きをしていて道に迷わないと見つからない。それと知らずに入った袋小路を引き返し、出てくるところを見られるのが恥ずかしいと思う人しか中へは入れない。メインストリートを真っ直ぐに行く人、悠然と軌道修正できる人には永遠に知られることがない。
 そのうちにバンちゃんのボルテージが上がってきた。
「活マキのシッポが爪のあいだに入ったんで、ちょっと痛い顔をしたんだ。そしたら、海老屋が痛がってどうするなんて偉そうにいいやがってよう」
「みてた、みてた。朝日新聞の文化部とかいう赤ら顔したデブだろ?昼飯喰ったあとで楊枝くわえて冷やかしにくる」
「なにが文化部だよ。ロッキングチェアーに揺られながら文化が語れるかってんだ」
「そうそう」
「小賢しい理屈なんかじゃねぇ、いちばん大事なことは罪を感じるってことだ」
「おっ、むつかしいな」
「罪を感じねぇやつは野蛮人だ。野蛮人に文化が語れるか」
 バランタインの氷はいつしか薄琥珀の海につかり、焼酎に浮かぶ桜桃は繰り返
 
それ以後は、ただの酔っぱらった海老屋だった。
「あんた、モンクが好きだなぁ」
 十五分たった。主人は彼の好みに合わせてエロール・ガーナーをかける。店の中の緊張が半分に減った。目を閉じたまま、南京豆だけでたっぷり時間をかけて二杯目を干す。そして目を閉じたまま南京豆とエロール・ガーナーで、それ以上時間をかけて三杯目を干した。客は誰も来ない。
「きょうはパスタが喰いたいんだ」
 バンちゃんが夕飯の注文をすると、主人は湯を沸かしはじめた。
「メシは…ひとりで喰うにかぎる。大勢で喰ったほうがウマイなんてのはウソだね」
 お決まりの、独り者の問わず語りがはじまる。
「味覚ってのは、マテリアルを物理的に知ることだよ。自分以外の人間がそばにいてみなよ、それだけでマテリアルに集中できなくなる」
 主人は冷蔵庫からデミグラのストックを取りだすと、インペリアルソースを作りにかかった。
「いや、負け惜しみで言ってるんじゃないんだ。食事にかぎらねぇ、なんでもそうだ。映画でも音楽でも旅でも…ひとりのほうがいい」
 ワイルドターキーのオンザロックは、四杯目が干された。
 と、そのときドアが勢いよく開いて、トラが体ごと入ってきた。
「オっ、生意気に酒なんか飲んでやぁんな」
 すでに飲ってるようだったが、その姿をみてバンちゃんは驚いた。
「おまえ、なんて格好してんだ」
「へへっ、どうだい、似合うかい?」
 トラは、ランニングシャツ一枚にまっ黒な半パン、素足にまっ黒なボクシングシューズを履いていた。
「戦う男に飾りはいらねぇんだ。知ってるか? マイクタイソン、奴のセリフだぜ。いつも身ひとつさ。ガウンも着ずにノーソックスでリングにあがるんだ。あいつはきっとチャンピオンになるぜ、みててみな」
「それでボクシングシューズか。いくらした?」
「三万」
 三階ほども高さのある細長い建物にはレンガ積みに銅板が貼られ、緑青がふいている。アーチ型の黒い一枚板のドアには白いペンキでOACIAN≠ニ書いてあるだけで、明かりも看板も出ていない。それでも緑青のコバルトグリーンと白い文字が不思議に浮き上がり、ここが酒場でなかに人の温もりがあることを主張している。海風が蔦の葉を、さわ、と揺らし、潮の香りがバンちゃんの口を黙らせ、そして夜がはじまった。
 扉を押すと、セロニアス・モンクが溢れてきた。六人掛けのカウンターがあるだけでそのまわりをレンガの壁が覆っている。前の棚は半分を酒瓶が、もう半分をレコードのジャケットが埋めている。セルロイドのフランス人形がローガンのとなりで無愛想に立っているほかは飾りらしいものはない。カウンターの左に南京豆の入った金魚鉢があって、バンちゃんはそのなかから一掴みをカウンターの上にバラバラ落とし、そのまま止まり木についた。
 バンちゃんの手は二十年前えびの毒で腫れあがり、凍りと塩と鋼の冷たさがそれをそのまま固めてしまった。木の根のような指で豆の殻をパキパキ鳴らせていると、この店の主人がでてきた。クリーム色の豊かな髪を後ろへなでつけた額の高い男で、酷く歳をとっている。バンちゃんをみるともなしに無言で棚からワイルドターキーをとりだし、丸い氷を入れたグラスといっしょにカウンターの上に置いた。
「きょうはちょっと遅かったのかい?」
 酒瓶とグラスを懐へはこびながら、そうバンちゃんが挨拶しても、すっ、とした横顔は何も言わない。
 バンちゃんはターキーをグラス半分に入れ軽く揺すっただけで口に含み、ゆっくりと喉へ送った。それが胃袋に落ち、血管を昇り脳みそに沁みわたるまで動かない。目の奥に火がつき、こんどは恍惚となって下腹へ伝わると、ふぅ、と一息吐き目を開ける。ラッキーストライクを口の端で火を点け大きく吸い込み、煙草を挟んだ手でグラスを持ち煙を吐きながら二口目を啜る。バンちゃんのこの順序は、この店へ通いだしてから変わらない。
 店には相変わらずモンクの哲学的なピアノが流れている。最初の一杯から十五分間、バンちゃんはほとんど神に近い。ゼロになっている。いまの彼になら世界中のあらゆる悲劇に明快な答えをだせるかもしれない。ただし、十五分だけだ。
いくよ」
「こなくっていいよ……なんだい、まだ明るいじゃねぇか」
 開襟のボタンをしめながら、バンちゃんは店の外へくわえ煙草の顎をしゃくった。
「あぁ、夏がはじまったからな」
「魚屋殺すにゃ刃物はいらねぇってか。また暑くなるぜ」
 外へでて河岸の方を仰ぐと、さなぎをぬけたばかりの蝉のように透きとおった月が、退場していく夕日にむかって弓を引いている。川面をつたう初夏の風は女の白い腕のように生ぬるく湿り、バンちゃんの顔にしっとりまとわりついた。それが起きぬけの不機嫌を段々と取り去ってくれるようで、口もとに何やらメロディーを遊ばせながら七丁目の方角へ歩きだしていった。
 バンちゃんは陽気な男だ。商売をしているときも、街を歩いていてもいつも何か口ずさんでいる。もっとも、誰が聴いてもわからない唄なので、市場の連中には出鱈目の歌とからかわれている。
 仕事がなければこんなところに用はない、とでもいうかのように、週末の午後の築地は閑散としている。その誰もいない街中を、チャリ、チャリ、と秒針より遅い調子で歩いていると、ベージュの聖路加病院が見えてきた。この界隈はその昔外国人居留地になっていたところで、東京と名を変えたばかりの頃にあっても、随分とハイカラな街だった。目を見張るばかりに豪華なホテルに洋人御用達の服屋に靴屋、レストランやシャレた菓子店に喫茶店。学校もあった。ある日、できたばかりの教会の門前に棄て子があったが、教会の神父はその子を引き取り育てた。以来、その門前には捨て子が絶えず、教会はいつしか学校になっていったという。が、それもこれも震災でみんな灰と瓦礫になってしまった。いまでは聖路加病院をのぞけば小さなカトリック教会が一つ残っているだけだ。その、平和で凡庸な街の風景のなかに佇む異国情緒は、難を逃れて当時を懐かしく語るというよりも、残された者の悲しみをむしろ湛えながら、ひっそりと石のその身を蔦の絡まるにまかせている。
 バンちゃんは教会の裏手にまわって司祭館のわきの小さな石段をあがっていった。鬱蒼と蔦の繁るなかを二、三回曲がると、そこにも砕け散ったはずのカケラがひとつ、ほったらかしにされたまま落ちていた。
 
大空馬吉

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