私は部屋の隅にまとめられた荷物のなかからジョニーウォーカーを一本、口を切ると、立ったままでそれを唇にあてた。何時間になるのか、この国の波打つ大地に揺さぶられつづけてすっかりくたびれてしまった体に、一気に酒精が沁み入っていった。そして煙草に火をつけてから、椅子に全身を投げだした。
 一人……目の前にぶら下がるもの哀しいオレンヂ。聴こえてくるのはペチカのなかで弾ける炎。酒瓶を持ち上げるたびに椅子は軋み鳴いた。羊の匂いの染み込んだ壁板。脂光のするテーブル。零れ落ちる中欧煙草の灰。窓外に凍る松林。黒白の大地。すきま風…異国の夜が、ひらいてゆく。
 ソーヨが隣の土間から湯気ののぼる大皿をもってあらわれた。
「夕食はなんだい?」
 日本語でそう尋ねると、ソーヨは眼尻の皺を穏やかに深くしてモンゴル語で応えながら右手の小指を立てた。この国で芳しくないことを示す仕草である。何が良くないのであろう。料理だろうか、天気、気分、仕事? それとも私か。ソーヨは尚も笑みを絶やさずしゃべりつづけ、テーブルのうえにモンゴルうどんの入った皿と硬いパン、胡瓜のスライスを三人分と、大皿に盛った黒紅い血のソーセージを並べていった。最後にアリヒと錫のコップを持って席に着いたとき、ゾリグドがもどってきた。
「きょうは男の祭りの日≠セ。だから皆村へ出かけてしまって誰もいない」
 言いながらその巨躯を椅子に沈めると、椅子は悲鳴のような音をあげて軋ませた。
「ここは銀の馬≠カゃないのか?」
「いや、ソ連軍が使ってた基地だ。もうソ連のじゃないがね。村はもうひとつ丘のむこうにあるんだが、今夜はここに泊まろう」
 ゾリグドはコップに注いだアリヒを一息で飲み干し、血のソーセージをハンマーのような手でちぎって二つ三つ立て続けに口へ放りこんだ。
「男の祭りの日≠ゥ。いってみたいな」
 わたしはゾリグドとソーヨのコップにジョニーウォーカーを注いだ。ゾリグドは鼻をフン、と鳴らし、音をたてて飲み干してしまった。
「村へいったらあんたのウイスキーはぜんぶ飲まれてしまうぞ。そうしたらあんたは明日ウランバートルへもどらねばならなくなる、そうだったな?」
 
 せせらぎを渡るごとに寒くなっていく気がした。事実、二台のジープはヘンティ山地の裾野を北々東へ進路をとり蛇行している。日本製オフロード車の助手席ですこしは読めるようになった地図を広げ、窓外と見くらべ独り言ちては、揺れる膝のうえに今宵宿営する村など探してみる。古の英雄が眠っているという山並みからやってくる小さな野川は、どれもその水面を白く凍らせていたが、越えてゆくたびに大きく弾む窓いっぱいの飛沫となって風にながれていった。
 遥かの地平まで、見渡すかぎり凍雪の大地である。中天を過ぎているはずの陽は、いつのまにか灰色の低い雲に遮られて見えない。ときおり、ゆるやかにうねる大地の小高く隆起した北側に、数本のシベリア松が、すっ、とした姿であらわれる。四千メートルを超える峰が連なるこの国の西端地方は、切れるように乾いた砂と小石ばかりの冷たい漠地であったが、ウランバートルをロシア国境沿いにある寒村目指して出発してからは、次第に北方針葉樹林帯の兆しが天地に見てとれるようになった。
 窓をすこし開けてみた。重さと匂いの感じられる風が肌を押してくる。気温は氷点下をいくらも下ってはいないだろう。絶え間なく揺さぶられる眼先に、ぽつん、ぽつんと銀化粧の綻びから黒い顔がのぞき、過去の形に凍っていた蹄の跡も、いま車輪の下に泥るみとなっている。私の横でハンドルを握るカラコルム出身のドライバーは、その長い顔を真赤にさせて前をゆくジープのはねあげる雪混じりの泥を追っている。冬が、終わろうとしていた。が、二台の車は季節の移ろいに逆らうように、北風に向かっていた。銀の馬≠ニ呼ばれるその村へは、落陽までは着くという。

「ダダルまでですか……かなりやっかいですよ」
 日本大使館の二等書記官は、静かだがよく透る声でそういった。
 二台の車の距離が離れすぎるとゾリグドは我々を待っていて、その度にソーヨと進路の相談をした。午後になって間もなく追いついたときは、両手をポケットにいれてゆっくりと地平線に向かって歩いていた。
 私は久しぶりに車を出て体を伸ばした。北西の冷たい風が啼きながら、砕いたガラスのように頬に突き刺さって痛い。いつのまにか大地にはほとんど起伏が失われ、天と交わる彼方まで凍雪の床がつづいている。いまにも落ちてきそうなほど重く垂れこむ雲でヘンティ山脈も見えない。
「少し休もう。腹がへった」
 雪原をソーヨと前後して歩いてくるゾリグドの巨躯は、狩人に仕留められた熊のようで可笑しかった。
「あとどれくらいだ?」
 煙草を勧めると、サンクス、と一本抜きブリキのライターで火をつけた。
「さぁ、どれくらいかな」
 ソーヨは首を振って、ボンネットの上に食べ物を包んだ紙を広げはじめた。私はジープのドアを開け、座席に置いてあった地図を手にした。
「いまどのあたりだ?」
「……わからない」
 バター入りのお茶を作っている間中、笑みの消えた長い顔がしゃべりつづけている。
「わからない? どういうことだ」
「だから現在位置がわからないんだ」
「道に迷ったということか?」
 ゾリグドは煙を吐きながら頷いた。我知らず周囲を見回した。何もなかった。我々を中心にして暗灰と銀白、二色刷りの世界があるだけだった。唯一、蛇行する轍の跡だけが、完全に均衡している二元の視界にある変化だった。
「どうする?」
「雪がふってきたな」
 白い靄に霞む地平線のなかから雷鳴が聞こえる。先へ進むしかなかった。
 西端奥地の旅では、やはり茫漠の空間の中での走行であったが、点景に羊の群れを垣間見たり、宿に着くまでに一度や二度の遊牧民との邂逅はあった。その度
 

 
「凍った道が溶けはじめているとおもいます。ルートも非常に迷いやすいと聞いてますし」
 私は、通された大使館の一室のソファのなかでもらい受けた名刺を見つめたまま黙っていた。
「オノン河も場所によっては渡れないかもしれません。もうすこし暖かくなれば空が使えるのですが」
 狼を見にやってきた。西端の永遠の山≠ノ狼はいなかった。ウランバートルへ戻った私は、国際ホテルに部屋をとり紫煙のなかに地図を広げていた。指先は、チンギスハーンの故郷の地を指していた。旅支度に出かけていこうとしたときだった。エレベーターで乗り合わせた日本の商社マンから、大使館の許可がないと出国できないという話をきいたから確かめたほうがいい、と声をかけられた。
「車は二台にしてください」
 思わず私は、手元に落していた視線を二等書記官の顔へ上げた。
「冬の道≠ェ…この国ではそう呼んでいますが、溶けていたら一台でいくことは危険です。それに冬の道≠セけではありません」
 赴任して二年になるという日本の外交官は、過不足の全くない、簡素で清潔な容貌と身のこなしで話を続けた。
「この国は民主解放されてから日が浅い。だれも民主主義や資本主義のやりかたを知らないし、すべてのことが手探り状態なのです。なにが起きるかわかりません。現に大使館の許可なしに出国できないなどとデマがとんでいるでしょう?」
「その商社マンは、領収書のない土産物は税関でぜんぶ没収されるともいってましたが」
「それは本当です。手にした金は自分のものにできるようになりましたから、以前にも増して不法な売買が盛んなのです。あなたのホテルでも従業員がカシミヤのセーターを押し売りにいきませんでしたか?」
「まぁ、わたしは土産など買わないからいいのですが、夜飲む酒が手に入らなくて困っています」
「酒は売ってるでしょう」
「いや、アリヒではありません。どうもあれは体質に合わないらしくて宿酔いになるんです。ウィスキーが欲しいのですがドルショップにもありませんでした」
旅93 チンギスハーンの贈り物
が聴こえるという。私は、耳を澄ました。
「よかったじゃないか、狼の声がきけて。きっと、あんたの好きなチンギスハーンからのプレゼントだぞ。さぁ、もういいだろ? 堅い場所≠ヨもどろう」
「いや、渡ろう」
 ヘンティ山を見つめたままそう言う私の顔に、ゾリグドの強い視線が注がれるのを感じた。そして聞きとれないほどの英語が機関銃のように浴びせられた。
「ゾリグド、河を渡るんだ」
 私はその細い目に向きなおり、日本語で言った。ゾリグドは、あっ、と瞳を見開きそして黙った。
「ソーヨに、お茶は河の向こうで摂ると伝えてくれ」
 そう言いながら、私はゾリグドのジープに歩み寄り、そのドアを開けた。
「オイっ、危険だっ、ソーヨの車に乗れっ」
「断る。この河を渡る、この車で渡ると決めたんだ」
「……フン、勝手にしろ」
 ソ連製軍用ジープのちょっと高い座席から見る大平原は、やはりどこまでも果てしなく続いていた。青い空もどこまでも青く、蒼く凍った河は大蛇のように身をよじり地平に消えていく。遥かヘンティ山の山鳴りに、未だ狼の遠吠えは聞こえているか。私にはハーンの贈り物が届いていない。そう、エンジンをかける友の横顔に、無言で言ってみる。
「ウイスキーはまだあるのか?」
「ああ、たっぷりあるさ」

 かつて、一人の蒼き狼が、何を求めてかユーラシアの大地を疾駆しつづけ世界を平らげたという。それは遠い遠い、あまりにも遠い日のお話である。
                               
                                おわり

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「方向は間違ってないから、この河がオノン河でないのなら、このさきにオノン河があるだろう。これがオノン河なら、このさきにオノン河はない」
 獅子の咆哮にも似た強風に流されぬようにして、いつもより高めのバリトンが響く。私には応える言葉がなかった。言葉だけではない。一体どうしたことか、さっきまであった心の高揚も、吐き出す白煙と同じように瞬く間に消えていく。
「そう、か……」
 意味もなく河に近づいてみる。二等書記官が、オノンにはイヘハガという紅い木が生えていて、そこに秋の夕陽が落ちていく様は絶景だと言っていた。ゾリグドに傍らで震えている灌木がその木なのか訊いてみようか。私は、大きな足音へふり返るのをためらい、マルボロの火を、最後の一本になったブルガリアの煙草にうつした。それにしても、何という冷たい風だろう、強い風だろう……。
「なぁ、思うんだが、ルートをもとにもどそう。堅い場所≠ヨもどってガソリンをしっかり確保して、ビンデルへ向かおう。そこからダダルを目指そう」
 こうして知らない冷たい風にさらされていると、何か、だんだん自分が空っぽになっていく気がする。地図もコンパスも食料も燃料もあるのに、私は空っぽになってゆく。日本を発ってから何日が過ぎたろう。モンゴルの大平原をずっと走りつづけてきて、私はちょっと疲れてしまったのかもしれない。いま、渡るべき河を前にして、答えはいくつかあるはずなのに、何も問うことができない。もしかしたら、印は失ったのではなく、もともと無かったのかもしれない。そうであるなら、印は決して蘇らない。碧く凍った河を見つめる体が、風に押されてすこし後ろによろめいた。ゾリグドが進路の変更を要求している。ゾリグドがそう言うのならそうしようか。むきになってこのまま進むことはない。疲れているのは私だけではないのだ。そうだ、もどろう……。
「チョノ!」
 ジープのなかでお茶の用意をしていたソーヨが叫んだ。遠くヘンティ山を指して叫んでいる。
「チョノ!(狼だ!)」
 狼……?
「チョノ? …ほんとうだ、啼き声がする…ヘンティ山からだ。聴こえるか?」
 ゾリグドとソーヨは、古の英雄が眠る山から吹きつける風にのって、狼の咆哮
 
 一瞬、新鮮な街の風景に注がれていた意識が跳んだ。
「…そうか。てっきり夜中に来たことに腹を立ててるんだと思っていたんだが、そうか…」
「気にするな。奴らが暴れたのはあんたのせいじゃない、酒のせいだ」
 道には大型車の轍が縦横に凍っていた。幕舎も羊も、どこにも見当たらない。すれ違う人たちはみなスラブ系の貌をしていた。
「驚いたな、ガススタンドがある」
「あのレンガの建物は映画館じゃないのか」
「…映画館だな。そしてこっちの方は…病院だ」
「越境してるんじゃないだろうな」
「フン、そんなことはない」
 ゾリグドは、板塀の扉があいている家を見つけて情報を仕入にいった。西端への遠征で一度、越境しかけたことがあった。永遠の山≠ゥらの帰り道、出会った遊牧の一家から、このまま進むと違う国へいってしまうと言われた。私は越境することを強く望んだが、旅のガイドは反対した。
「まちがいない、ここは堅い場所≠セ」
 ゾリグドが出てきた扉からは、小さな子供の顔が覗いていた。きれいなブルーアイズだった。
「オノン河を渡ればダダルへの道があるそうだ。朝飯を食べたらもう一度ルートを確認してガソリンを補給したら出発しよう」
 ゾリグドは中国製の煙草にブリキのライターで火をつけた。私は持ってきてなかったので一本もらった。フィルターのない煙草は強く、夕べの役人の言葉にも似て、私にはちょっと苦かった。
 堅い場所≠出発してからはずっと山道だった。おそらく木材を運ぶ大型トラックがつくった、深くえぐられた轍に落ちるのを避けるために、二台の車は片輪を山肌に乗せ斜めになって走った。反対側は針葉樹林の屹立した急斜面が切れ込んで谷になっている。
「どうだいソーヨ、狼がでてきそうな山道じゃないか」
 必死で運転しているソーヨには悪いと思ったが、私は、気分がよかった。モンゴルに来てから随分いろいろな道を通ってきた。だが、ここまで来た。いや、来
 
ることができた。冬の道≠進んでいたときのこと、チンギスハーンゆかりの青い湖で休息をとった。そこはかつて、部族から孤立し母や弟たちとともに追われたハーンが、彼の馬を休ませ水を与えたところだという。私はその水彩画の青のような湖水の底を覗き、馬のいななきを探した。紅深い林の奥に、英雄とその家族の姿を探した。いま、こうしてその故郷を目指す道の先には、より近く、彼が確実に踏みしめた大地があり仰いだ空がある。それらに触れたとき私に、鬨を挙げる兵どもの声が蘇るかどうかはわからない。期待は同時に不安の裏返しでもあったがしかし、私の心は昂ぶっていた。
 山道は次第に谷底との距離を縮めていった。そして昼近く、不意に針葉樹の覆いがとれたかとおもうと、もう窓いっぱいに明るい平原が広がっていた。その目に入る大地の半分を、大きな河が碧い大理石のように凍っている。
 河幅は狭いところで五十メートルくらいだろうか。背の低い紅い灌木が点在する河原に雪はなく、冬枯れた草の生えているところもある。ゾリグドは広い草地にジープを止め、河の上を向こう岸に歩いていた。
 何という冷たい風だろう。そして強い風だろう。北西から、すべての生き物を排除するかのように唸り声をあげ、凍った河を舐めながら吹きつけてくる。こんな風に吹かれたことはない。水辺の紅木はみな怯えたように身を震わせている。私は毛皮の手袋と耳あてをした。
「渡れそうか!」
 片手をポケットに、もう片方でキャップの鍔を掴み背を丸くして歩いてくるゾリグドに向かって大声で訊いた。
「ああ、危ないところもあるにはあるが、まず問題ない。それより……」
 ゾリグドはどこで手に入れたのか、マルボロを取りだし二本抜くと一本を私に差しだした。
「予定では、オノン河にでるのはもう一、二時間先のはずなんだ。それにもっと大きい河だと聞いている」
「オノン河じゃないのか?」
「わからんな。渡ってみないことにはわからない」
 嵐のような風のなかでもゾリグドのブリキのライターは一発で点き、その炎を二人で囲った。
 
氷を砕く音とともに一条の眩しい光が差し込み、顔が横を向いた。顔を戻したときには軒先にぶら下がる氷柱の向こうから、純白の広場と、雲一つない真っ青な空が目に飛び込んできた。
 私は凍った雪の上に幾つかの足跡をつけて立ち止まり深呼吸をした。そして広場がゆるやかに下っていく先にある、青空と深い針葉樹に囲まれた堅い場所≠見わたした。
 堅い場所≠ヘ、ちっぽけな村ではなかった。昨夜遅くに到着したときにはわからなかったが、建物はすべて木造でレンガ造りの大きなものも幾つかある。どの屋根も鉄の煙突を持ち、そこから昇る蒸気と煙が白竜のように踊りくねり、そのあいだを一本の電線が巡っている。伸びをする私の背後から、氷雪を深々と踏み砕く大きな音が近づいてきた。
「朝食ができるまで散歩をしないか」
 つきぬける青空に吐きだされる白い息を見上げて、私は頷いた。
 家々を囲む板塀は、みな揺れるように波を打っていた。電柱は勝手な方向に傾いて地面に刺さっている。少し斜めになっている母屋もある。直線と九十度角と計算された曲線の建築しか知らない私にとって、不揃いで好き勝手に建っている街並みは、いまにも何かしゃべりだしそうな生き物のように思えた。
「夕べは大変だったな。あれからどうした?」
「仕方がないから奴らの部屋へいって一緒に飲んだよ。ベッドを使えなくして悪かったな」
 昨夜は遅くに着いたこともあって宿がなかなか見つからなかった。ようやく捜しだしたホテルで食事をしていた時、二人の酔漢が部屋に入ってきてゾリグドと口論になった。
「役人だっていってたな」
「ああ、環境省の役人だ。役人が飲んで暴れるんだからな、街の人間が人を殺すようになるのも無理はない」
 二人ともロシア系の面立ちと体躯をしていて、そのうちの一人とゾリグドが掴みあいになったが、ゾリグドの相手ではなかった。
「何をあんなに怒っていたんだ?」
「なんで日本人の家来になってるんだと、オレとソーヨを罵っていたな」
 
「では、印をつけるのですね。新しい印を自身に刻むのです。それも変わってゆくということではありませんか?」
 白く長い指でくるくると万年筆のキャップを回し、それを背広の内に仕舞いながら二等書記官は言った。
「変わってゆくことが必定であるならば、モンゴル人は新しい印を探してそれを自分自身に刻んでいかなければなりません。現在この国の人口は約二百万人、その内の八割は三十歳未満です。若者になら、それが容易くできることでしょう」
「わたしは、若くはない」
 二等書記官は、その言葉は繋がなかった。再び老人たちの演奏がはじまると、それに振り返り「こんどは山の歌≠ナす」と言って訳してくれた。
「あなたをガイドするモンゴル人も日本に行ったことがあります。モスクワ大学で日本語を勉強した人で、わたしが赴任した年に日本の相撲部屋からスカウトがきましてね、そのときの通訳でした。スカウトはモンゴル相撲の選手を見に来ていたのですが、彼があまりにも立派な体躯なので親方はすっかり彼に惚れこんでしまいましてねぇ、もう少し若かったらモンゴル人で最初の関取になっていたかもしれません」
 よい旅を――踵を返す二等書記官の高く澄んだ声は、残り香のような余韻を私の耳に留め、やがてレストランのさざめきのなかに消えていった。私は、女にもう一つビールを注文した。女はカウンターの下に屈んでからこんどはギネスの瓶をだし、そしていなくなった。

 
 目が覚めたときは釜戸の白い灰が見えていた。私は夕べ、ベッドではなくこの釜戸のまえに寝袋を敷いてもぐり込んだのを、夢うつつに思いだした。暗がりで時計の針がよく読めない。その視界の先にうっすら、ソーヨが手水に湯を入れてるらしい。熾きのある方に腕を伸ばして起きがけの重い頭に時間をわからせた。冷たい土間に空の酒瓶と一緒にブーツが転がっている。私は寝袋を這い出て、よろよろと壁板に手を這わせながら朝を探した。記憶にある、板を打ち合わせただけのような扉は重く、外の凍った雪も邪魔してか開かなかった。ソーヨが塩辛い声で近づいてきて手を貸してくれる。二人で力いっぱい扉を押すと、ガリガリと 
も清潔で端正だった。
「民主化が成ってからこの国を訪れる人が増えました。海外との交流は今後ますます盛んになっていきます。日本にとってもより一層モンゴルは身近な存在となっていくでしょう」
 私は日本とモンゴルが身近になどなってほしくなかった。モンゴルは、いつまでも遠い国であってほしい。
「ふふ、あなたらしい。でももうこの国の変化を止めることはできない」
「というより、国家にしろ個人にしろ変わらぬものなど無いのでしょう……わたしにはそのことが物悲しく感じられてしかたがない」
 馬頭琴の音色が聞こえてくる。二人ともグラスを手にふり返った。レストランの真ん中あたりでテーブルを二つ合わせた十人ほどの家族だった。一人の老人の奏でるリズミカルな演奏に、もう一人の老人が手振りを添えて唄いはじめた。
「馬の歌≠ナす」と、二等書記官は言い、訳してくれた。

  満月は わたしを照らす
  あなたも わたしを照らす
  わたしは あなたに 恋をしてしまった

  わたしの馬には わたしの印がある
  あなたの馬には あなたの印がある
  わたしとあなたの印は 永遠に消えることはない

「確かに、変わってしまうことの悲しさや淋しさというのはあるでしょうね」
「ええ、わたしは印を失ってしまった人間だからそれがわかるんです」
 冗談めかして言ってみたが、二等書記官は真顔で言葉を繋いだ。
「変わってしまうというのは、失うことだというのですか? だから悲しいのだと?」
 歌が終わると外国人旅行者たちから拍手が起こった。老人たちはそれに応えるわけでもなく、家族との談笑を再開した。グラスを空にした二等書記官は、カウンターの向こうにいる女と言葉を交わし、女の差し出す紙に書付をしている。

 
流れる白煙の先に、働く少女の紅い頬があった。泪がでるほどに美しい横顔だった。私は地図を広げた。
「堅い場所≠ヘちっぽけな村だ、地図にはのっていない」
 ゾリグドは、地平に煙る微かな陰影を見つめて言った。
「あの山のなかにある」


 赤褐色の深いカウンターをノックすると、思いのほか大きな音が高い天井に谺した。近くのテーブルの客たちが、弾かれたように私を見た。ホテルに隣接する百席近くある大きなレストランはほぼ満員だったが、バーには誰もいなかった。
 よく使い込まれた一枚板のカウンターを私はもう一度ノックした。従業員服を着た中年の女がでてきた。西の砂漠のどこかで見たような顔だった。ビア、という注文は通じたが、女は中国製の缶ビールとグラスを置いてすぐに姿を消してしまった。
「車はチャーターできましたか」
 グラスに白い泡をたてている私の耳に、高く澄んだ日本語が聞こえてきた。二等書記官だった。私は昼間の礼を言ってからビールを一息で飲んだ。
「夕食ですか」
「ええ、一時間ほどまえにここで公式行事がありましてね、そのままプライベートで残っているのです」
「飲りませんか?」
「そうですねぇ…」
 私はカウンターをノックした。出てきた女にもう一つグラスを、と言おうとしたが、二等書記官はロシア語でジンジャエールを注文した。女は、いなくならなかった。
「ホブドへ行ってらっしゃったんでしたね」
「ええ、美しいところでした」
「ダダルも美しいですよ。ただオフシーズンに陸路で行くというのは厳しいものがありますが」
 笑いながら、琥珀色に染まるグラスを口もとへ運ぶ日本の外交官は、どこまで
彼らから情報を仕入れ、必要があれば進路の修正をした。冬に道≠ノは誰もいない。いや、生き物ひとつ見えなかった。車は今までより速度を上げた。その分振動が大きくなり、ドアの上の把手を握る手に力が要った。まっすぐに広がる雪原でもゾリグドは蛇行して走った。私は話がしたかったが、同乗することは断られた。ソーヨはきょう、まったく笑顔を見せない。前方の視界は動くワイパーのなかに限られ、いつからかゾリグドは赤いテールランプを灯けている。寝袋と食糧があるのだから、それほど心配する必要のないことはわかっている。酒を無性に欲しがる心と体が、夜が、そう遠くないところに来ているのを告げていた。
 銀の馬≠出発してから十二時間が経っていた。二つの大きな幕舎を営む家族だった。一日の終わりの仕事を薄闇のなか、雪に追い立てられて忙しくしている。サァンバイノー! 車を降りた私は大声をだしていた。サァンバイノー。男も女も、老人も子供もそれに応えてくれた。幕舎に近づいていって、もう一度コンニチワといった。彼らは仕事の手を休め、笑顔でコンニチワと返してくれた。私は、この国へ来てからはじめて彼らと同じように笑った。
 ゾリグドは、老人とその息子らしい若者と話をしている。その輪に入ろうとする私に肩を並べてきたソーヨの顔にもようやく笑みがもどっていた。
「予定していたルートからだいぶ逸れている。今日中にダダルへいくことは無理だ。今夜ここに泊めてもらうと明日はビンデルにステイすることになる。ダダル到着は早くてその次の日だ」
 やがて夜になる。風とひとつになって雪は止みそうにない。あたたかい人たちは泊っていけと言ってくれてるらしい。
「ここからもう少し先の堅い場所≠ワでいくのであればオノン河が近い。そこが渡れれば明日中にダダルへ着けるかもしれない」
「どうしたらいい?」
「フン、あんたが決めることだ」
「堅い場所≠ワではどれくらいかかるんだ?」
「昨日今日と気温が下がってきている。五時間走ればいけるだろう」
 私は煙草を吸おうとしたが、雪に濡れて火が点かなかった。ゾリグドが長と話をしながら、ブリキのライターの火を大きな手でかざしてくれた。長は、今夜はここであたたまっていけと言っている。そうしなくていい理由は何もない。風に 
らコートの内ポケットをまさぐった。
「オレが使っていた名刺だ」
 角がとれて皺だらけのそこには、ロシア語が印刷されていた。
「それで翻訳の仕事もしている」
 大きな背を丸めてポツリと漏らした声は、心なし淋しげに聞こえた。ゾリグドの英語は観光客相手に磨かれたものではないのかもしれない。ソ連最古の衛星国家としてその中枢を華やかに担い威勢を誇っていたであろう党のエリート官僚や軍人、親ソ派民間人の現在というものを私は知らない。ソーヨはこの国の遊牧の民すべてに共通する素朴さ、善良さ、大らかさ、静かな信念といったものが凝縮され純粋な微笑となって体から溢れさせているが、ゾリグドの言葉や表情には、それらを覆い隠してしまうある種の矜持があった。その根拠となり源となっているのは、多分、この一枚の擦りきれた名刺だった。
「ロシア語はわからないんだ」
「フン、そんなことよりどうだ、もう一本ウイスキーをあけないか?」
 黒い血の鮮烈な晩餐は終わった。罪と呼びたくなるほど、それは生命そのものだった。今宵は男の祭りの日≠ナあるという。ならば酌み交わさねばなるまい、この酒蛇どもと。モンゴルの蒼き狼と、最後の滴ひとつ残すことなく杯を干すのだ。
「よしっ、飲もうじゃないかゾリグド」
 そう言いながら私が新しいジョニーウォーカーの口を切ると、ゾリグドはやっと笑ってくれた。

 空は、きのうよりも重く感じられた。夜明けとともに出発してから四時間が経とうとしている。ソーヨはその間ずっと無言で、泥に汚れたつららをぶら下げて走るゾリグドのジープの轍をなぞっている。ゾリグドは自分の車には私を乗せてくれなかった。それが流儀なのか、私に限ってのことなのかはわからない。波浪に弄ばれる小舟のように、波打つ雪原の大きなこぶの向こうに消えては眼下に現れ、私には見えない冬の道≠突き進んでいった。途中二度、我々の車が泥るみにはまって動けなくなった。日本の車はモンゴルには重すぎる、ウィンチをかけながらゾリグドはそう言った。
 
 私は黙って、もうひとつジョニーウォーカーを注いだ。
「ダダルへいったことは?」
「ない……」
「チンギスハーンが生まれたところだろ?」
「そうらしいな…ナイフを貸そうか?」
 ゾリグドはジープを運転するように手を休めることなく、ひたすらアリヒを飲みつづけ血のソーセージを食べつづけた。
「ダダルで狼が見られるだろうか」
「どうかな。無理なんじゃないかな」
「狼が見たいんだ」
「山のなかへハンティングにいくのでなければ無理なんじゃないかな……羊の肉が食べたいと思わないか?」
大皿はすぐに平らげられた。アリヒもほとんど残っていない。私は、手酌で飲るようにジョニーウォーカーを二人の前に差し出した。
「食糧庫は空っぽだそうだ」
 ソーヨはゾリグドと話すときは笑い顔をしなかった。そして血のソーセージのおかわりを持ってきたが、こんどのは半分ほどが茹でた内臓だった。
「とにかく明日は早く出発しよう。冬の道≠ェ通れなくなりそうだ。場合によってはビンデルにステイする」
「ビンデル?」
 私はテーブルの上に地図を広げた。ゾリグドは桃色の大きなな顔をのぞかせて黒い血と金色の脂に濡れた指でその地を差した。
「今年は暖冬でね、冬の道≠ェ溶けていたら先へ進むことはできない。オノン河も渡れるかどうかわからない。ダダルまでいけたとしても帰りのことは保証できないな」
 私は、ジョニーウォーカーを煽りながら無言でいるしかなかった。
「ま、なんとかなるとは思うが、狼は動物園で見るんだな」
 煙草を勧めたが、手を忙しくしている二人は首を横へふった。
「英語がとっても上手だな」
 そういうとゾリグドは鼻を鳴らし、タートルネックの裾に指をなすりつけてか
「舗装した道をいくわけじゃないんだ、割れても知らないぞっ」
 ゾリグドはウィスキーの入ったバッグを荷台の一番奥にしてその周りを他の荷物でかため、さらに毛布を隙間に埋め込んだ。
「ダダルに長逗留するつもりなら途中でガソリンを手に入れなければならないんだ。どれくらい滞在するんだ?」
 ウランバートルを出れば燃料補給は絶望的であることは、旅行会社から知らされていた。
「…ウィスキーがなくなるまでさ」
 ゾリグドはまた、フン、と鼻を鳴らし、そしてボンネットのうえに地図を広げてソーヨと話をはじめた。
 私はジープに寄りかかって、レーニン通りを行き交う人と車をただぼんやりと眺めていた。無聊が苦にならなくなったのは、いったい何時のころからだろう。きのう見知らぬ少年から一ドルで買ったブルガリアの煙草に火をつけ、胸いっぱいに吸いこんだ煙を遠くに見える山の稜線に沿って少しずつ吹きだしてみた。人々の巻きあげる粉塵が街の一部として美しく一枚の風景画を描き綴っているのに中欧煙草の白い彷徨は、逃げるようにして空へ消えていく。
 雲一つない、明るく冷たい空気の朝だった。

 時計の針は五時四十八分をさしていた。夕日も星も見えなかったが、遠くヘンティ山脈が、暮れゆくユーラシアの天地を画布に鮮やかな黒色でシルエットを浮かばせている。
 そこは小屋と幕舎がが七つばかり群れただけの集落だった。馬はどこにもいなかった。羊もいない。窓に明りはなく夕餉のために立ちのぼる幕舎の煙もない。私とソーヨはゾリグドにしたがい、一つだけ灯りの点いている一番大きな小屋に入っていった。
 裸電球がぶら下がる部屋には、ペチカがパチパチと暖かい音をたてていた。踏みならされて薄桃色になったカーペットに六人掛けのテーブルがのっているほかは何もない。ソバカスのような砂埃をつけた二重ガラスの向こうには漆黒の闇が広がり、そのなかでシベリア松の林が浮き沈みしている。いつの間にかソーヨの姿はなく、ゾリグドも外へ出ていった。
 
「そうですか、ありませんか……では、もらいもののウィスキーがあるので進呈しましょう。わたしは嗜みませんので」
 二等書記官がくれたのは、一ダースのジョニーウォーカーだった。
「これは領収書がありませんから、ぜんぶ飲みきらないといけませんよ」

 出発の朝、一階のレセプションへ降りてゆくとフロアのガラス越しに二台の四輪駆動車が止まっていて、二人の男が立ち話をしているのが見えた。
「日本から来た旅人はあんたか」
 玄関ドアを開けた私に、キャップを被り黒い毛皮のハーフコートを着た大男が流暢な英語で話しかけてきた。
「オレはゾリグドだ。こっちはソーヨ、英語は出来ない」
 頭の上の空気を勇壮なバリトンが揺らし、駱駝色のデールを着た長い笑い貌の男を紹介した。歳をとっていた。
「ゾリグド……もう一人はシチェルバータという名ではないのか?」
「あいつにはオリてもらった。ソーヨは運転はヘタだが料理が上手い。カラコルムから出稼ぎにきていて、いまウランバートルホテルでコックをやっている。オレにはあんたの食事の世話まではできないからな」
 日本製の四駆車に荷物を積み込むソーヨを私も手伝った。笑みを絶やさずしゃがれた声でしきりに話しかけてくるが、私にはわからない。
「ダダルには二日で行けるだろう。ガソリンは一週間分を用意した。プランをきかせてくれないか」
 ソ連製軍用ジープの走行メーターの数字を手帳に書き込みながらゾリグドが言った。
「プランは、ない」
 そう応えるとゾリグドはメモの手を止め、ナイフでつけた傷のような両眼で私をじっと見つめてから、フン、と鼻を鳴らした。
「その荷物は何だ」
「ウィスキーだ」
「ウィスキー! ちゃんと養生してあるのかっ」
「一応はしてある」
岩田牛五郎

(’93 某月某日)