のベージュ色の壁板も同じで、そういったものの間を、苦深い珈琲の香りの染み込んだ時間が、管や弦の旋律を添えて見えるようにたゆたい、それとわかる人たちを寛がせるのである。
「あっ、メニュー書いてあるよ。スパゲッティだって、ニイちゃんスパゲッティでもいいか? でも量すくねぇかもしんねぇな」
 店には一人掛けの席で本を読んでいる若い女が一人いるだけだった。男は壁に貼ってあるメニューを読みながら、自分とは対角の隅にいる女に目を遣った。
 ジーンズのミニスカートをはいたウエイトレスが、静かに注文をとりにきた。身を屈めて水を置きながら、とても小さな声である。男の目の前にうす桃色の太ももが露わになっている。
「ランチまだやってる? えっ、もうおわっちゃったぁ? おい、ニイちゃん、やっぱりおわっちゃったってよう」
 男の声はカン高かった。そして笑っていた。
「じゃあ、ミートソースでいいや。ニイちゃんは? んじゃ、ミートソースふたつね」
 男は崩れた顔でいいながら、退がっていくウエイトレスの下肢をじっと眼で追い、それからきれいに櫛のはいった頭を撫で、首までチャックの上がったクリーム色のジャンパーのポケットからハイライトをとりだした。
「ニイちゃん、きょうはもうけたよな。三時間しか仕事しなかったもんな。三時間で一万はおいしいよな、ウン」
 そして、きちんと折り目のついた千円で買えるスラックスと、汚れていない光沢のある二千円で釣りがくる靴で貧乏ゆすりをはじめた。
「地下鉄の駅前ってパチンコ屋ねぇのな」
 オーケストラが、一拍フォルテを鳴らした。とても強いフォルテである。瞬間男の意識が音楽に向いた。が、すぐに貧乏ゆすりを再開した。
「飯喰いおわったらどうする? このへんパチンコ屋ねぇみたいだし、カラオケでもいくか?」
 フェルマータの指示に世界が静寂と並行していくなかに、カウベルの軽やかな音が聞こえた。
 ツィードとウールの上着を着た背の高い男二人だった。二人とも使い古したシ
 ドアのカウベルが、壊れるようなけたたましい音を響かせたのは、午のピークを過ぎて店がもっとも静かになろうというときだった。
「ランチ、まだやってっかなぁ」
 男連れの客である。茄子紺のベルベットの敷かれた階段を二人、踵で降りてくる。
「なぁ、ニィちゃん、時間すぎちゃってるかもしんねぇな」
 大きな紙袋を提げた貧相な中年が、頭の黄色い若者をふり返って言った。
「そとにランチって書いてあったよな?」
 階段の壁には、オーケストラや指揮者の顔が大写しになった、コンサートを知らせるポスターが何枚も貼ってある。
「飯ィ、なかったらどうしようかな…サンドイッチとかいうんじゃぁ、オレぁ、ヤダな。ニィちゃんはどうする?」
 踊り場を曲がるあたりに、至極ゆっくりしたテンポの弦楽合奏が零れてくる。見下ろすさきに、CDがいっぱいに詰まった棚があり、その上に大作曲家のプロフィールが一枚掲げてある。
「べつの店にすっか? …あっ、そう」
 棚の右手は、レジとその向こうが厨房になっている。二人は左へ進み、トイレの前を通ってそのまま一番奥の角の四人掛けのテーブルに座った。
 店は新しくはなかった。また、広いということもなかった。中央に暖炉を背にした六人掛けのテーブルを置き、通路を挟んだその両側に、二つの四人席と四つの一人席がある。それを凹の字を描くように二つの二人席が繋いで、床に敷かれたベルベットに合わせた落ち着いた彩度と質感に満たされている。椅子とテーブルは古くて小さく、材質もデザインも高級なものではなかったが、清潔で静かな力強さがあった。それは、漆黒の太い柱や作曲家たちの肖像画の掛った、東欧風






 
 
  旅96 喫茶店
(09・01・29 書き終える)

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そういうもんじゃぁないかなぁ。(クッチャ、ピッチャ、ゾゾッ…)枝葉の先っぽのところでカツカツでやるより、(ゾゾッ…ゾ、ゾ、ズ、ズ、ズ…)余裕っていうの? これ、いったいなんの役に立つのっていう部分でいいんじゃないのかなぁ。(ゾゾゾゾゾゾゾッ、ゾ、ゾ、ゾ…)それがアメリカだとすぐニーズ、お金っていう感じでしょ。そういう余裕がヨーロッパにはあると思うんだよね。(ズ、ズ、ズ、ズ…ンチャ、ンチャ、ンチャ…)やっぱり、マイペースでやるのがいいよね」
「…ん、ん、あー食った…」
 フォルテはつづく。
「…気持はわかるよ、ぼくだって顕微鏡のぞくのが好きで好きでしょうがないっていうわけでもないし」
「わりかし量あったよな」
 フィナーレになり、やがてもとのテンポにもどれば主題が再現される。スコアに書かれたリズムと強さの指示を、指揮者はどう解釈するであろうか。
「まぁ、たしかにねぇ、ふつうの幸せに疑問感じちゃったりする人、多いからねぇ」
「またあしたもニィちゃんといっしょだといいな…えっ? もう来ない?」
 主題が再現され、最後の和音の終止へ向けてリズムは力強さを増してゆく。
「そうだねぇ、ぼくのときもそうやって見送ってもらおうかね、あははは…」
「なんで? えっ? …なんだ帰んの? まだコーヒーきてねぇぞ…ちょっとまてよニィちゃん、んじゃ、おれもいくよ…なんだよ、もう…よう、ちょっとまてよ、よう」
 四分休符をもって曲は終わった。カウベルの音は、こんどは聴こえなかった。
 非常に知的で技巧的、また極めて思索的な構成、かつ荘重な、しかしほとんど宗教的ではない、ゆるやかな弦である。
 ジーンズのミニスカートを穿いたウエイトレスが、ナプキンを巻いたフォークとタバスコ、粉チーズを盆に載せてあらわれた。それらを男のテーブルに並べているあいだ、男は広げたスポーツ新聞からウエイトレスの太腿を盗み見た。
「…銀行がつぶれるなんてな、日本もたいへんな時代になったな……銀行がつぶれるなんてな…いままでは考えられなかったからな……こんどな、アメリカの大統領も来るしな……日本はな…島国だからな…」
 ウエイトレスはするべきことをすると、さっさと退がっていった。
「学位は取っといたほうがいいよ、勝手につながりもできるしねぇ。ぼくのときも苦しい状況だったんだけど、何とかこう、堪えてね、一番よかったとおもう。それくらいかなぁ、先輩としてすすめられるのは…だけどいま、ほんとうに論文書かないと生きていけないよね、質じゃない、数だよね」
 男がスポーツ新聞のポルノ小説の挿絵に心を奪われていると、ウエイトレスがミートソースのスパゲッティを運んできた。
「おっ、ケッコー量あんな、なぁニィちゃん」
 男の食べ方は見苦しかった。また聞き苦しかった。女は、本から顔を上げ束の間中空を見据えたが、珈琲を一口啜るとふたたび頁へ目を落とした。
「…君はアルバイトしてるの?(ゾゾ…)しなくていいんならそのほうがいいけどね。(ゾゾゾッ…)ぼくのときは助手の口もあったけど、最後の一票でダメになったりでねぇ(ゾゾゾゾ…)会社の顧問なんていうアルバイトしてたねぇ」
 優美な形式に整えたいという作曲家の意図が明白な展開部は、三人の客を庇うようにメッゾ・フォルテを奏でつづけた。
「顕微鏡のぞきながら、こう、せつなくなってきてねぇ(ゾゾゾッ、ゾゾゾゾッ…)日本にいてもいい仕事がないし(ンチァ、ンチャ…)、かといって返事はぜんぜんこないしねぇ、なんかもう、いいやとおもって荒れてた時期があってさ。(ゾゾゾッ、ゾゾッ、ゾゾゾゾゾゾッ…)で、忘れたころにスペインから返事がきてね。(ンチャ、ンチョ、ンチャ、ンチョ…)いまではスペインでよかったとおもってるんだ。研究ってさ、いちばん一生懸命やってきたのがぜんぜん的外れだったり、たんに趣味でやってたものがいちばん自分に必要だったり、科学って 
でね」
「……オレら、コーヒーいつくんだっけか? …えっ、メシのあと?」
 ウエイトレスはテーブルの上に珈琲を置くと、ウールのジャケットを着た客と言葉を交わしはじめた。銀色のトレーを丸い胸にあて笑っている。男はそれを見ながら二本目のハイライトに火をつけ、貧乏ゆすりを強くした。
「へぇ、そうなんだ。なにか論文書いてるの?」
「……メシのあとだっけ? ……」
「あぁ、一本あればいいよ、ドクターだってみんな一本だよ。ドクターとったあと三本とかにするんだ」
「…そうだっけか? …」
 ウエイトレスが笑顔でトレイを胸に当てたまま男の脇を通り過ぎようとした。それは珈琲を持ってきたときの三倍の速さだった。
「! ……」
 男は言葉を用意し、最大限に顔を綻ばせてウエイトレスと目を合わせようとしたが、ウエイトレスはそれには気づかずに退がっていった。
 ホルンが雄大かつ悠然と音階風に上がったあと減滅してゆき、店に小さな静寂ができた。陶器の触れあう音には微塵も慌ただしさがなく、頁をめくる音はあくまでも優雅である。
「…そのときに外国の研究所に手紙を書いてね、雑誌に住所が載ってるでしょ。自分はこういう研究してるんだけど、そちらで雇っていただけないでしょうかってねぇ。十二通だしたんだけど、お金がないからアメリカは全部ダメだった」
「………」
 指揮者の振り上げる袖の衣ずれが微かに聴こえたかもしれない。と思うと、最初のモチーフが繰り返されはじめ、こんどは幾分、強調され変化を含んだ形で表われることを期待させる。女の客は本を読む手を休め、珈琲を一口啜った。その刹那を男は盗み見ていたが、女は自分の前にいる二人を見ていた。男は紙袋のなかにあったスポーツ新聞を、多少、芝居がかった大きな動作で開くと、貧乏ゆすりをしていた足を組んで読みはじめた。
「日本もあれだな…これから大変だな、なぁニィちゃん…銀行がつぶれるなんてなぁ、いままででは考えられなかった……銀行がつぶれるんだからな…」

 
したデータもなくて大味だったねぇ」
「フツウかぁ」
「あんまり期待もしてなかったんだけど、じつは、来年からバルセロナにいくことになってねぇ、その下見をしたくていったようなもんなんだけどさ」
「ニィちゃん今日が始めてって言ったっけか? …んじゃぁ、やっぱりもうけたな。おれみたいにもう顔おぼえられちゃったヤツにはよォ、ケッコー楽なのまわしてくれんだけどよォ、それでもオマエ、きょうみたいにおいしい日はめったにあるもんじゃねぇよ」
「そうなんだ、やっと外国の研究所に出してた手紙の返事がきてね、二、三年行ってこようと思うんだ。君、スペインへは行ったことある?」
「始発じゃおそいよォ、ニィちゃん来たときは、もうケッコー並んでたろ? ……オレ? オレはよう、オレは、だから、あの辺に住んでっからさぁ。でも、オレはもう、ほら、顔おぼえられてっから、レギュラーだから。きょうだってオレが行ったのニィちゃんよりだいぶ遅かったろ? パン、食えなかったもんな。あそこは早く行くとパンくれんだ。ニィちゃんも食えなかったろ?」
「コロンブス像のね…そう、そう、そこの海水浴場の先をちょっと行った左に研究所があるんだけど、あの辺は海流が混ざりあうところでね。そうだねぇ、場所としてはいいと思うね。応対してくれた職員が美人ばかりでねぇ。いまスペインは不況だから海洋植物なんていう分野は女性の研究者が多いんだよね。男は、すぐ金になる工学部あたりにみんないっちゃって」
「ふーん、んじゃぁ、そうとうきょうはモウケタな……なんだニィちゃん二コかよ。ときどきいんだよなァ…とにかくよ、早く行ってよ、顔おぼえてもらうことさ、仕事もらうのレギュラー優先だからよ。うしろにいちゃダメだよ、いちばん前に行かなきゃ。いくら早く行ったって、うしろにいたんじゃアブレちゃうよ」
 ジーンズのミニスカートを穿いたウエイトレスがトレイに珈琲を二つのせ、注意深い足取りで持ってくる。おかげで男は、自分の目の前を横切っていくうす桃色の太ももを遠慮なく見ることができた。
「君は何をやってるの? …鉄? 鉄はいまホットなんだよ。つまり、海中のCO2がどんどん上がってきてるでしょ、そうすると植物プランクトンの……そうそう、葉緑素が崩壊しちゃうの。それで鉄が不足してるんじゃないかということ 
 ョルダーバッグを肩に下げ、肌の歳は若そうに見えるのに、白髪の混じった油気のない髪をごく普通に伸ばしている。ツィードのジャケットを着ている男の方が恰幅が良く白髪も目立っている。コットン地のシャツの上に暖かそうなセーターを着込み、好感が持てる程度の脂肪がそれらをはちきれんばかりに持ち上げていた。二人は男たちの脇を折れて、並びの角の二人席へ着いた。
「でも君に会うとは思わなかったな。ぼくのほうにも、ちょっといいニュースがあってね」
 やわらかく小さな、そして静かだが確然とした声である。
「いや、なに、このへんに脂肪がついちゃってねぇ、ぼくもドクターとったくらいから太ったよ」
 本を読んでる女が、自分の正面に位置する彼らを一瞥したが、すぐにまた本に目を落とした。それは、とてもゆっくりした動作だった。
 ジーンズのミニスカートを穿いたウエイトレスが、トレイに二つの水をのせて男たちの脇を、茄子紺の絨毯に足音を吸いこませ通っていった。男はその肢を目で追った。
「スパゲッティよ、大盛にしときゃあよかったかな? ニィちゃんスパゲッティだけで足りっか? ん? ちょっとよう、どれくらい量あっかきいてみようか、な?」
 弦がゆっくり、静かに、瞑想的に響きはじめた。
「この喫茶店もひさしぶりだなあ…ぼくも珈琲、あ、砂糖はいりません。なにかリクエストしようか? 学部のころはブルックナー専門でねぇ」
「スイマセンっ、ねぇ、おねえさん、ここのスパゲッティってさ、量どれくらいあんの? 少ないほう? …フツウ!オイ、ニィちゃん、フツーだってよォ!」
 男は顔をこれ以上はないというほどに綻ばせて、頭の黄色い若者と二卓先で身を屈めているウエイトレスとを交互に見やりながら、上ずったカン高い、不必要に大きな声で言った。そしてなおも、退がっていくウエイトレスの後姿を追い、つづいて本を読む女と、ツイードとウールの上着を着た男たちを窺った。彼らは男にはまったく関心を示さなかった。
「うん、二週間にいっぺんくらいはツクバからでてくるんだ。だけどきょうは大学に用があってね……そう、マンチェスターの学会。大きな学会だったけどたい 
早川蛇ノ介