Memory

   野球  その二


 子供の頃は周囲に空き地が沢山あって我々の遊び場だった。原っぱ≠ニ呼んでいた。
 




   野球  その一 


 野球を見なくなった。巨人の松井がヤンキースへ行った後、球場へは一度も足を運んでいないし、彼がそこを解雇されてからはテレビも、というよりテレビそのものを見なくなった。ついでに、父親の代から新聞は読売だったが、新聞をとるのも止めた。
 野球は、幼い頃より日常の一部分であったが、動画サイトで過去のものを見る以外まったく興味がなくなっている。そして、それがさして寂しいことと思われない。

 
 記憶にある最も古い野球の思い出は、父親と一緒に観ていた白黒テレビのデーゲームである。五、六歳の頃であろうか。
「ショキュウ、ってナァニ?」
「ピッチャーが最初に投げる球だよ」
 アナウンサーが、「5、4、3のダブルプレー!」などと言えば、5はサードで4はセカンドで…、と父に教わり、大人というのはムツかしいことを知っててスゴイものだ、と思ったことを覚えている。
 当時、テレビの野球放送は、今とは正反対のバックネット側から中継していた。言い忘れたが、我々の世代にとって野球とは巨人戦のことであり、王、長嶋のことである。
 王の後頭部とそれに繋がる太い首には、バットを構えると二本ほどのよじれた線が浮き実に力強かった。お決まりの音楽をバックにスコアボードを写すところから放送は始り、一回の巨人に得点が入っているときは大抵王のホームランだった。あまりにも続けてホームラン王になるので、幼かったわたしは「王」とういう名前と何か関係があるのだろうか?などと思ったりした。
 わたしにとって王がホームランを打つのは当たり前のことだったから、興味の対象はその飛距離にあった。弾丸のように場外へ消えていく打球に驚喜し、スタンド上段であれば満足し、中段は納得、フェンスぎりぎりに入るホームンだとあまり喜べなかった。
 その王の後方ウエイティングサークルには、バットのグリップを肩に片膝をつく長嶋。世の中にこれほど見事なツーショットはないと当時も今も思っている。そして
「四番、サード長嶋」
 ウグイス嬢の声とともにバッターボックスに入る長嶋は、正に千両役者だった。
「オーバー会の会長だ」
 その一挙手一動に父もわたしも顔を綻ばせて喜んだ。何をやっても映画の主役のようで、一度こんなことがあった。巨人が守備側で一つアウトをとりテレビには解説者が映っていた。するとなぜか観客のどよめきが聞こえてきたのである。
「長嶋がおもいっきりボールを投げています」
 と、アナウンサーがいいカメラがすぐダイヤモンドにターンすると、内野手どうしがルーティンでするボール回しだった。試合がだらけていたのだろうか、長嶋はダイナミックに矢のようなボールを黒江、土井、そして王へ投げていた。こういうプレイ・オフの試合とは関係のないボール回しでも、長嶋はわたしたちを魅了して止まなかった。
 また、王が阪神ピッチャーのビーン・ボールに倒れた時の事。事実とは若干違うのだがわたしの記憶にある断片的な白黒映像では、阪神ピッチャーにわざとボールを当てられ頭をかかえたままピクリとも動かない王。両軍入り乱れての大乱闘。担架で運ばれる王。そして打席に入る長嶋。わたしは、当然長嶋はホームランを打つだろうとおもっていた。なぜならば映画の主役はここで仇をとるからである。そして長嶋は、夢見る少年が想像するとおりに、権藤の投げた球を甲子園左中間スタンドに叩き込んだのである。

 
 金田のカーブというのは、いまでもはっきり覚えているが、投げたボールがいったん、画面の右上の外へ見えなくなって、また右から画面中央に曲がってきてバッターの外角低めにきまるという物凄いものだった。
 堀内のカーブは曲がるというよりも、大きく滝のようにほぼ垂直に落下する。我々はドロップと呼んでいた。城ノ内は、振りかぶってから足を上げるとき大きく体を捻るので、必ず背番号15が見えた。私はよく城ノ内のマネをしたものである。江夏は必ず王にホームランを打たれ、堀内は必ず田淵にホームランを打たれた。平松がマウンドに上がると決まって父は、「こいつはわざとボールをぶつけるからな」と、サッポロビールを飲みながら罵った。夕食を囲みながら巨人戦を観る、という庶民の日常を、少年だったわたしも共有していた。
 
 試合のあった翌朝は必ず読売新聞のスポーツ欄で巨人の順位と王、長嶋の成績を確認した。巨人が一位で、王がホームランのトップで、長嶋が打率か打点のトップであれば、安堵と満足感いっぱいの気分で学校へいけた。
 結局、巨人はわたしの少年時代のすべてで日本一になった。テレビのブラウン管のなかで、王は何本も、何本も、何本も場外へホームランをカッ飛ばし、長嶋のバットのヘッドが大きなS字のヒッチを描いて左足をアウトステップさせた次の瞬間、背番号3がくるっとこちらを向き、柴田や土井がホームを踏んだ。
 王と長嶋はわたしの、いや、わたしたちのヒーローだった。そして、幸福な時代の象徴でもあった。


 
 五年生のとき、父に初めて球場へ連れていってもらった。巨人対ロッテの日本シリーズ。わたしはその夏に盲腸の手術をしていて、父としては快気祝いのつもりだったのだろう。
 今はもうなくなってしまったロッテの本拠地東京球場で、チケットを買う大勢の人の列にずいぶん驚いた記憶がある。
 ロッテはペナントレースが始まる前、なぜかわたしの街の市営球場で紅白試合をおこなった。その噂を耳にしたわたしは友人と観に行った。試合内容はまったく記憶にないのだが、試合後、どういうわけか一人で球場の外に出てきた主砲アルトマンはいまもよく覚えている。目の前でわたしを見下ろすアルトマンは目を見張るばかりに背が高かった。わたしは何も言えなかった。もしかしたら最初に見た黒人だったせいかもしれない。
 席はレフトスタンドの前から三列目だったとおもう。試合前の練習で、目の前にテレビで見るのと同じ高田や柴田や堀内がいるので、何か不思議な感じがしたのを覚えている。バッティング練習をする黒江は、試合でホームランを打つことはめったになかったのだが、ほとんどの打球がわたしのいるスタンドに飛び込んできて、意外に想ったりもした。王と長嶋は何故かいなかった。
 外野席の前列だったせいか、もっぱら高田がわたしの視野にあった。ロッテの攻撃で三塁線を破るヒットが二本あった。普通のレフトであれば、フェンスに当たったクッションボールを取るので、ほとんど二塁打になるのだが、強肩で俊足の高田は、二度とも打球がフェンスに当たるまえにサッ、と掬いダイレクトでセカンドへ送球し封殺か単打にした。テレビとは違い、ダ、ダ、ダ、ダッという高田の駆け足の音が間近に聞こえた。それはいまも耳奥に残っている。
 長嶋はホームランを二本打った。そのどちらもわたしの手の届くところに来た。王のホームランは噴水のように高く舞い上り、ゆっくりとライトスタンドに落ちていった。にもかかわらず巨人は負けた。アベックホームランがでて負けた試合というのは、記録的にも珍しいのではないかといまおもう。爾来、わたしが球場へいくと巨人は負けるというジンクスができてしまった。
 試合が終わると、わたしの周りにいた観客は一斉にグラウンドへ飛び出していった。当時はいまと違い外野フェンスが低かったので選手のそばまでいくことができたのである。わたしもそうしたかったのだが、手術後まだ日も浅くできなかった。


 わたしが中学三年のとき、巨人は、わたしが野球を見知ってから初めて日本一にならず、長嶋が引退した。引退試合の日は学校から猛ダッシュして帰宅しテレビの前に座った。わたし一人だった。
 試合の内容はまったく覚えていない。デーゲームだったので間に合わなかったのかもしれない。ただ、セレモニーだけは記憶に鮮明である。
「昭和三十三年…」
 ヒーロー・インタビューのときの甲高い声ではなかった。
「…我が巨人軍は永久に不滅です」
 感慨はそれほどなく、永久≠謔閾永遠≠フほうが適切なんじゃないかとおもったりしていた。スポットライトに一人照らされる演出も涙の場内一周もあまりピンとこなかったが、王との最後のツーショット、握手をする場面には胸に響くものがあったようにおもう。王は唇を噛みしめ俯いたままだった。
 
 子供だったわたしにとって野球は、筋書きのあるドラマだった。すべてが予定調和であり、時に勧善懲悪であり、そして盛者必衰だった。夢見る少年時代を巨人、長嶋とともに終えたわたしは、夢はもう終わってしまったことを、その後知らなければならなかったのである。



                         

                                         2016・6・2





   溜池にて


 大学時代、大衆音楽で身を立てたいと考えていたわたしは、卒業後も就職せずに喰い扶持はすべてアルバイトで稼いでいた。生来の気質からか、あるいはその時の状況がそうさせたのか、次から次へと職を変え、その数の多さは世間の常識の外にあったとおもう。何の自慢にもならないし、むしろ恐ろしくも恥ずかしい気もするのだが、幸いなことにそれらの大半は既に記憶の底に眠ってくれている。が、なかには、いまもしばしば顔を出す想いでもあって、墓石屋の事務職≠烽サの一つである。
 

 夏だった。溜池の交差点の、外堀通りと六本木通りに挟まれた、アメリカ大使館がすぐ傍にある一角にその商事会社はあった。商事会社といっても二十坪もない、確か、三階建てのビルとも呼べないような建物の一階に看板を挙げていた。芦田伸介そっくりの社長と建物のオーナーであるおバさんと二人きりの会社だった。
 何をしているのか、さっぱりわからない会社だった。墓石を製作しているか販売しているらしいのだが、どこで墓石を作っているのかわからなかったし、営業マンも週に一回顔を見せる、野球帽を被った酒屋の御用聞きのような格好の三十男一人だけだった。わたしが受けた電話も、注文はもちろん墓石がらみの話は一切なく、ゴルフクラブの会員や不動産投資の勧誘といったものしかなかった。
 わたしの仕事も、これといって決まったものがあるわけではなく、その日会社に着いたら社長やおバさんから言われることをするだけだった。法務局へ行ったり、小切手を切ったり、貸借対照表に数字を入れたり、時にはおバさんの娘の夏休みの宿題を手伝ったりしていた。
「ワープロの練習をしてもらおう」
 と社長がいうので、まだパソコンなどない時代の、デカイ電子レンジにディスプレイがついているようなワープロのキーボードを適当に叩いて終日遊んでいたこともある。またあるときは、
「日本仏教の宗派のことを調べてくれ」
 といわれたので、墓石屋のくせにいまさらナニ言ってんだ=@とおもいながら三日間、赤坂図書館へ通ったりもした。当時の赤坂図書館は、吹き抜けの二階へ行くのに螺旋階段があったりする、こじんまりとしたシャレた建物だったが肝心の蔵書のほうは随分貧弱なものだった。だからロクなレポートができなかったのだが、社長のほうも本気でわたしの報告を聞いてなかった。


 事務職ではあったが外へ出ることが多った。大体昼食は外で摂っていたし、自転車で移動していたので、仕事のついでにあちらこちら寄り道をした。
 防衛庁の近所にあるはずの知り合いのバーを探しに行ったり、一ッ木通りで生まれて初めてインド料理のナンを食べたり、おバさんが薦めるので文部省の食堂へ行ったりした。天下のお役人が食べるものはどんなものかと興味津々で、確か最上階だったとおもうが、その時ですらレトロな感じのする食堂で食べたスパゲティは、学食のそれとかわらなかった。
 東芝EMIのビルには用がなくても行った。当時、わたしが最も影響を受けた音楽グループのプロモーションビデオにこのビルが登場していたからである。オレもいつかここへ来るんだ=@ビルを見上げるたびにそうおもったものである。
 官庁街にあった喫茶店に入ったときは面食らった。蝶ネクタイをした角刈りの、わたしと同じ歳くらいのウェーターが注文を取りに来たのだが、わたしの席に来るといきなり中腰になり、左手を左腿の上につくのである。そして右手を伸ばすとクルッと手のひらをみせ、つまりは、ヤクザが仁義を切るときのポーズをとり、「ご注文は?」と訊くのだった。きっと右翼関係が経営する店だったのだろう。
 アメリカ大使館と通りを挟んだ斜向かいに、ちっぽけな八百屋があった。こんな所で商売になるのかと不思議におもったが、初老の親父が商いをしていた。そして、野菜をいじる親父と向かいの大使館にはためく数本のフラッグのコントラストは、わたしに権力≠ニいうものを考える初めての契機を与えてくれたような気がする。当時の若いわたしにとって権力≠ニは、紙に印刷された、法が保障した身分を表す文字のことだった。首相官邸のなかにいる内閣総理大臣も、大蔵省の役人も、裁判官も、胡瓜の箱を持ちあげている親父と身の丈の変わらない人間ではあったが、紙の上の文字は、国会議事堂や最高裁判所の威容な建物を造り、自衛隊の鉄格子のついた車を動かし、皇室が出かける際には何台も警護車を出動させることができた。何者でもなかったわたしは毎日、人間の生身ではない、物理的なそれら無機物の威容をみて、あぁ、これが国家というものか=@などとおもわずにいられなかった。
 

 社長はまったく仕事らしい仕事もせず、わたしとおしゃべりをするか、中空を見つめていた。
「もうひと花咲かせたい」
 という言葉をわたしに聞かせては。芦田伸介と同じ口髭を撫でるのだった
 そんなわけのわからない会社には、わけのわからない人物がいつも出入りしていた。
「おぅ、社長! いま帰ったよ」
 あるとき、スキンヘッドの作務衣を着た大男が台風のような勢いでやってきて、ものの十分も社長と話たかとおもうと、また台風のようにさぁーっと帰って行った。別に興味があったわけではないが、することもなく手持無沙汰にワープロのキーを叩いていたわたしは、帳簿をつけているおバさんに誰なのか訊いた。
「誰かしらね。刑務所にずっといたんだけど出てきたみたいね」
 おバさんは涼しげに、帳簿から顔を上げもせずこたえた。
 不動産のブローカーも頻繁に出入りしていた。まだバブルが影も形もない頃で、地上げ屋=@という言葉もなかったが、ジャガイモのようなゴツゴツした顔の四十男は、その地上げ屋≠セった。社長のことを「オイちゃん」と呼び、とにかく縦板に水で、誰がどうした彼がどうした、あそこはどうでそこはこうで、と、そんなような話ばかりを延々と話すのだった。
 社長はこの男が来ると、昼に必ず近くの松月庵からせいろの大盛りを出前にとった。他人の不動産の情報、というよりわたしには噂話にしか聞こえない話をしながら蕎麦を手繰る男は、ただ単に昼飯をタカりにきているだけにしかみえなかったが、この仕事は何億で、その前のときは何億だったと、わたしにとってはどうでもいい無意味な話を聞かせるのだった。
「いまは田園調布に住んでるけど、そのまえは下町の六畳一間のボロアパートに親子三人で暮らしていたよ。まるでジェットコースターみたいな生き様だよ」
 そんなことをさも得意げに言う男の地上げ屋≠ニしての実力のほどはわからなかったが、一度、男の持ち込んできた話で登記簿謄本を取りに行かされたこともあって、当人の知らないところでこんな悪人に目をつけられたらたまったものではないな、とおもったものである。
「話が大きいでしょ。千三つだから信じないほうがいいわよ」
「センミツ、って何ですか?」
「ああいう人の仕事はね、千のうち三つもまとまればいいほうなのよ」
 机の上に地図を広げ社長に熱弁をふるった男が帰ったあとでおバさんは、品のいい福よかな顔を綻ばせてそう言った。


 ある日、慶応病院の医者というのがやってきた。わたしはこの会社に出入りするウサン臭い連中の話をほとんど信じてなかったが、このときのこの医者の言った信じられない言葉は、いまも強烈に、ある意味わたしを縛り付けている。
 あのとき医者は三〇分もいたろうか、何故か椅子に腰かけず、わたしの傍らに立って社長と話をしていた。そして話の脈絡は忘れてしまったが、女優の夏目雅子が入院してきた、と言いだしたのである。
「だけど、白血病でもうダメなんだ」
 それを聞いて社長とおバさんは大仰に驚いてみせたがわたしは電卓を叩きながら「ウソつけ!」とおもっていた。わたしにはこの男が、ブローカーやヤクザに比べれば知的な顔立ちと身なりをしているものの医者だとはおもえなかったし、本物の医者だとしても、こんなわけのわからない会社に出入りするくらいだからロクなものではないだろうと、到底信用する気にはなれなかった。さらにそんなわたしの気持ちに止めを刺すかのように、男は医者としては極めて医者らしからぬ言葉を吐いたのである。
「ガンなんて、きれいな水を飲んでれば治っちゃうんだけどな」
 不思議なことに、医者はこの言葉をわたしに向けて言った。あまりにも非科学的だから社長やおバさんは信じないとおもったのかもしれない。
「水を飲んでるとガンが治っちゃうんですか?」
「うん。山のなかのきれいな湧水をね、朝起きたら一リットルくらい一気に飲むんだ。息継ぎをしちゃダメ。一息に飲むんだ」
 医者の語った話は、音楽に夢中で、まだ若く死が現実的でなかった当時のわたしには無用だったはずだが、いまだ鮮明に記憶に残っているから、何かわたしの心の琴線に触れるものがあったのだろう。いま、医学や医療、その他の科学の知識も増え、ついには、いつガンに侵されてもおかしくない年齢になってみると、そのとき医者が語った言葉が、あながち間違いとはいえないのではないだろうかとおもえるようになってきた。
 その日、仕事が終わったあとで交際していた女性にその話をした。総武線で彼女のアパートへ行く車中、雑誌広告の中吊りに「あの人は今…」という企画の宣伝があり、十何人かの著名人の名前のなかに「夏目雅子」の文字を見つけたからである。若かったわたしは、医者が語った一部始終を、自分しか知らないニュースとして彼女と周囲のサラリーマンたちにむかって聞こえよがしに話していた。


 夏が終わる頃、わたしは渋谷にあるちっぽけなライブハウスに出演することが決まり、同時に会社をクビになった。ライブの演出上、髭を生やしはじめたことがその理由だったとおもうのだが、いまもってなぜクビになったのかよくわからない。
「ここはもういいから、家でお母さんの面倒をみてあげなさい」
 おバさんは、そのとき体調をくずしていた母をダシにつかってやんわり解雇を告げた。社長のほうは、ほんとうに芦田伸介になったつもりか、
「困ったことがあったらいつでも来い」
 と、映画にでてくるような自分のセリフにいたく満足気であった。
いま困ってるだろっ
 思いもよらない展開に突然生計の手段を失ったわたしは、オレンジ色の夏の残照を正面から受けながら、千代田線「国会議事堂前」駅まで、ギターケースをもって只とぼとぼと歩いた。
 
 まったくわけのわからない会社だった。


               




              



              



               14・05・07
 

 




   アメリカ

 
 この五月、フィリピンの片田舎の港町を訪問した折り地元の人たちとカラオケをする機会があった。民家の狭い空きスペースにジュークボックスのようなマシンがあって、キングサイズのビールとグラスを一つ用意した彼らは、地元流の回し飲みをしながらポップスやフィリピンのラブソングを歌いはじめた。
 わたしはといえば、日本の歌など一曲も入ってない古ぼけた歌本をめくりながら思いあぐねていたのだが、突然、「SUKIYAKI」という声があがったので、ふいを突かれた気持ちになった。すると皆も一斉に「スキヤキ、スキヤキ」とわたしを促す。英語とタガログ語だけの歌本には、確かに「SUKIYAKI」があった。
 そしてフィリピンの、観光客など一人も来ないような田舎で、わたしよりはるかに歳若い人たちがこの歌の来歴を知っているという事実に、わたしは胸をうたれたのである。
 やっぱり、アメリカなんだなぁ=@と。


 わたしが物心ついた頃は終戦から二十年経っていて進駐軍などとっくの昔に引き上げていたのだが、アメリカは日常のそこかしこにあった。特に、白黒のテレビのなかはアメリカだらけだった。「トムとジェリー」、「ポパイ」、「スーパースリー」、「親指トム」などのアニメからはじまって「コンバット」、「ララミー牧場」、「ローハイド」、「スーパーマン」、「バットマン」、「ミステリーゾーン」、「サンダーバード」、「ベン・ケーシー」、「スパイ大作戦」、「ナポレオン・ソロ」、「奥様は魔女」、「ルーシー・ショー」、「ザ・モンキーズ・ショ―」、「名犬ラッシー」、「腕白フリッパー」などのシリーズもの。映画は、「ドラキュラ」や「ミイラ男」に「フランケン・シュタイン」、「プルトニウム人間」くらいしか記憶にないが、「ドラキュラ」などあまりにも怖いので、布団を頭から被って顔を両手で覆い、指の間を少し開けていつでも閉じられるようにして観たものである。
 テレビ時代はわたしの世代の誕生と共に始まったが、「ウルトラマン」や「巨人の星」を観るよりも以前、アメリカの番組でわたしは育ったのである。原っぱで戦争ごっこをし、風呂敷を首で結んでスーパーマンの格好を真似、五十円の小遣いでサンダーバードのプラモデルばかり買っていた。アニメの日本語の主題歌などいまでも唄えるし、ロイ・ジェームスの…来週のバットタイム、バットチャンネルで…≠ニいうナレーションも鮮やかに脳裏に蘇らせることができる。
 
 その頃のアメリカに対するわたしのイメージを一言でいえば、大きい≠ニいうことにつきるとおもう。白黒テレビのなかで、アメリカの大地は大きく、人も家も大きかった。冷蔵庫も大きく、なかから出てくる牛乳瓶は、銭湯で湯上がりに飲む明治乳業の牛乳瓶とは比べものにならないくらいの大きさだった。
 もう絶縁になってしまったが、わたしの母方の伯父はなぜか外車≠運転していて、遊びにいくと乗せてくれた。車種などわかるはずもなかったが、その威圧的で周囲を睥睨するような大きな車は、当然アメリカ製であったろう。車体の大きさにくわえて、ドアの分厚いことといったらなかった。日本車の二倍はありそうな外車≠フドアを、感嘆しながら何度も開閉していたのを覚えている。伯父はわたしと母と弟を乗せ、雑踏のなかをのろのろと運転しながら、
「みんな驚いてるぞ」
 と得意気だった。
 幼いわたしにとってアメリカは、大きくて明るくて力強く希望にあふれ、正義の味方のような、そんな存在だったようにおもう。
 
 
 クリスマスはとても楽しみだった。キリストもトナカイも煙突も登場せずサンタクロースが何者であるかも理解してなかったが、その日は父親がそのサンタクロースに扮して、夜、枕元に靴下を置いておくとそのなかにプレゼントを入れておいてくれる、というストーリーはいつのまにか知っていた。わたしも何度か枕元に靴下を置いたとおもうが、無骨な父がそんなことをするはずもなく、いつも駅前の不二屋へ、お菓子が入っている赤いサンタの靴を買いに行っただけだった。
 家でのクリスマスは面白くもなんともなかったのだが夜、町の公民館で催されたパーティはこの上もなく楽しかった。
 地元の青年会か、あるいはキリスト教関係の主催だったのかもしれないが、照明を落とした会場にはツリーと十字架があり、そこで賛美歌を唄いゲームをしプレゼントをもらった。それは遠足や運動会といった同じ非日常と比べても何か特別な雰囲気があって、夜に遊んだということもあるだろうが、幼いわたしは随分感動した。
 バレンタインデーは小学五年のときにやってきた。級友と教室のベランダでおしゃべりをしていると、そのなかの一人が、二月十四日はバレンタインデーで、女の子がチョコレートをもって好きな男の子に告白する日である、というようなこといいだした。
 最初わたしはその意味するところがわからなかった。わたしにとって、愛の告白は男子が行うもの以外のなにものでもなかったからである。そんな、男子にとって都合のイイ、夢のような日があるわけがない、そう反論した。すると別の一人が、いや、わたしだったかもしれないが、それは阪神のバレンタインの葬式の日だ、といいはじめた。バレンタインはその年のプロ野球ペナントレースで阪神にきていた助っ人外人である。
 しばらく問答をしていたが、どう考えても女の子のほうから告白するというのは非現実的におもわれたので、結局、バレンタインデーとは阪神のバレンタインの葬式の日である、という結論におちついた。
「そうか、バレンタイン死んじゃったのか」
 教室のベランダにのせた両腕に頬を埋め、そう呟いている自分をいまでもはっきり覚えている。 

 
 街中に様々な国の人たちの姿を見かけることは最近ではごく普通のことになったが、いまから五十年ほどまえはもちろんそんなことはなかった。外人≠ニいう呼称はいま差別用語らしいが、わたしの幼少期の外人≠ヘ白人≠フことで白人≠ヘアメリカ人としか思わなかった。たまに親と都心へ出かけた折に彼らを見かけようものなら、それはちょっとした事件だった。
「きのう、ガイジンみたよ」
 と教室で言えば、おしゃべりの話題を一気にさらうことができたように記憶している。
 外人≠目撃した、最初のはっきりした記憶は、小学校の社会科見学で行った横田基地だった。有刺鉄線に囲まれた広大なキャンプ内を歩くカーキ色の軍服を着た米兵に、我々学童は興奮したものだ。
「あ、ガイジンだ! ハロー、ハロー」
 皆、バスの窓から身を乗り出して手を振った。いまでは想像もつかないことである。その横田のキャンプに、五年生のときのクリスマス、招待されて泊ったことがある。

 Kとは当時、クラスで一番仲良くしていた。大きな鉄工所の倅で、わたしは毎日のようにKの家に遊びに行っていた。そして、事の詳細は忘れてしまったが、クリスマスにアメリカ人と結婚している叔母のところへいくから一緒にいこう、というので、もう一人Hを誘っていくことになった。クリスマスだし手ぶらじゃいけないだろう、と案じたわたしとHの母親は、わたしたちに草加せんべいを風呂敷に包んで持たせた。
 Kの叔母の運転する車でいった先は米軍キャンプだった。横田だったとおもうが、Kの叔母の結婚相手というのはアメリカ軍人だとそのとき知った。
 学校の校庭の何十倍もありそうな広い敷地は芝生だった。そこに十分なスペースをとって、塀や庭のない同じ造りの平屋が点々とあった。ドアは手前に網戸が付いていた。家のなかは見たこともないような広いリビングとダイニングで、リビングの中央には大きなクリスマスツリーがあった。ツリーの幹の周りには色とりどりのプレゼントが置いてあり、そこにもってきたプレゼントを置くようにいわれたわたしは、途端に恥ずかしさでいっぱいになった。わたしとHがもってきた草加せんべいは明らかに場違いな感じがした。実際、草加せんべいを見たガイジンの子供がバカにしたか批難したかして、Kの叔母がわたしたちを慰めてくれたり、来るんじゃなかったと後悔したりした記憶が残っているが、記憶違いかもしれない。
 集まった人たちのことも何をしたのかも覚えてないが七面鳥を食べたことだけは覚えている。大きな鳥の丸焼きで冷たかった。冷たい肉というのはわたしの常識に存在しなかった。白いソースがかかっていた。
「おもしろい味ね」
 若い日本女性の声だった。食べ物の味を、甘いでも熱いでも美味いでもなく、おもしろい≠ニ表現したその声は、わたしにとって新鮮だった。
 わたしたちにあてがわれた寝室はベッドが一つあるだけで、リビングに比べるとこじんまりとしていた。Kの叔母が撮ったとおもわれるが、そのベッドの上でパジャマに着かえたわたしたち三人が横になっている写真が一枚残っている。わたしの髪は濡れているが、残念なことに風呂もシャワーもトイレのことも記憶にない。
 まったく眠る気のない三人はキッチンを探検することにした。
「デケェー!」
 冷蔵庫の大きなことといったらなかった。
「ヘンな形!」
 わたしは無遠慮にもそれを開けた。ドアも外車≠フような分厚さだった。
「デケェー!」
 テレビで観るのと同じキングサイズの牛乳瓶が一本あった。片手では持てなかった。七面鳥がほとんど食べられないまま残っていた。わたしたちが食べたものとは別のものだったのかもしれない。わたしはもう一度その白いソースのかかった冷たい肉の足の部分を少し食べた。パーティーで食べた七面鳥の味は覚えてないのだが、このツマミ食いのときの味は覚えている。パサパサしていて、あまり美味いものではなかった。
 翌朝、わたしたちが目を覚ましてベッドの上でふざけていると、
「シャラップ!」
 と部屋の外で大声がした。「シャラップ」は小学五年生でもわかった。てっきりわれわれが怒られたのかとおもってドアをあけると、阪神のバッキーそっくりのこの家の主が、大きなコーヒーカップを片手に二人の息子を叱っていた。いかにもボビー≠ニかトム≠ニいった感じのする金髪でそばかすだらけの顔をした二人は、黙って機嫌の悪い父親の顔を見上げていた。たぶん日曜だったのだろう。


 
 わたしにとってアメリカは、外国であるには違いないが、おそらく内国≠ナもあるのだろう。アメリカはわたしという人間の一部を形成せずにはおかなかった。そのためなのか、わたしには訪れたい国々が山ほどあるのに、アメリカには行きたいとおもわない。それどころか、時おりわたしのなかで眠っているアメリカが顔を擡げることがあって、そんなときは、郷愁にも似た不思議な感覚におそわれるのである。
 
 

 マイクを渡されると、恐竜が暴れる映像しか流れないディスプレイに、イントロとともに英語の歌詞が現れてきた。いつのまにか周囲には子供たちも集まってきていた。アメリカは、あの子たちにはどのように沁み入っているのだろうか。
 フィリピンの片田舎で、それじゃあ、アメリカ製ではないオリジナルの「SUKIYAKI」を披露してやろうかと、坂本九をマネて日本語で唄ったのだが、やはり言葉が通じなかったせいか拍手はなかった。 



             2013・10・02




  やさしく悲しい目をした男たち  その一


 この歳になると、昔日を振りかえるのはやはり楽しいものになる。インターネットでのアーカイブスやら懐かしい動画には時の経つのも忘れるが、わたしの場合、もっぱらそれは音楽とスポーツに集中する。特にボクシングは、自分でも理解に苦しむほど子供の頃からわたしの心を魅了して止まない。先日も、73年9月1日、日本武道館で行われた世界ヘビー級タイトルマッチ、ジョージ・フォアマン対ジョー・キング・ローマンの試合に、当時中学生でテレビの前で胸をときめかせていた自分を思いおこしていた。
 実はこの日の武道館では、放映はされなかったが、もうひとつの世界戦が興行されていた。WBC世界J・ライト級タイトルマッチ。チャンピオン、リカルド・アルレドンド対挑戦者、柏葉守人。結果は6回、柏葉のKO負け。柏葉は76年にもWBAチャンピオン、ベン・ビラフロアに挑戦し13回、KO負けしている。世界チャンピオンにはなれなかったが、柏葉さんはこの日、あのフォアマンとともに一万人の拍手と歓声を浴びていた。

 もう二十年にもなろうか。わたしが柏葉さんと会ったのは、日雇い労働の現場だった。柏葉さんは四十と幾歳かであったと思う。硬そうな髪に白いものがチラチラしていた。背丈はそれほど高くなかったが、太く短い首とはちきれそうに発達した上半身は、落ちぶれて貧相な他の人夫とは明らかに異なるエネルギーを発散していた。
「カシバさん?」
「カシワバ」
 分厚い眼鏡の向こうで、笑うと無くなってしまう少し垂れ気味の目は、確か左だったとおもうが、黒目があさってのほうを向いてしまって、この男の普通でない何かを助長していたと思うが、ずいぶん長いことその過去を知らなかった。
 わたしは柏葉さんと同じポジションで働いていた。とにかく動きが速かった。尋常でなかった。わたしも含めて他の人夫たちがダラダラと仕事をするのに対して、柏葉さんは、なにがそうさせるのかといいたいほど速かった。いつも笑顔で穏やかで、どちらかというと大人しく目立とうとしない。何を話していたのかまるで覚えていないが、自分から語りかけることはあまりせず、もっぱらわたしの聞き役専門で、わたしがなにか言うたびに感心したり、口の両脇に唾を浮かばせ擦れた声をたてて笑うのであった。
 
 同じポジションにHという若い男がいて、柏葉さんはこの男と山谷に住み行動をともにしていた。Hは容貌は優れていて決して悪い人間ではないのだが、窃盗の逮捕歴のあるチンピラだった。わたしもロクデナシだったから、食事や休憩などいつも三人で時を過ごしていた。
 その夏、わたしが、今年の忘年会は三人でしよう、そのためにこれから毎日デズラ(日雇いで得る金)のなかから100円を貯金しよう、と提案した。山谷の飲食店では注文するごとに金を払わなければいけないからである。柏葉さんもHも賛成し、それからは仕事がおわるとわたしが100円を徴収しビニール袋に入れ管理した。
「どれくらい貯まった?」
 秋も終わる頃には、ずいぶんと重たくなった袋を三人で覗きこんで歓声をあげたりしていた。
 南千住の小塚原刑場跡に隣接する、名は忘れてしまったが、山谷住人御用達の飲屋で忘年会をした。食事もできる一階は早朝から開けていて二階のコンパは明け方まで営業していた。コップのなかに蠅が入っていたり、調理する人間によってまったく違うチャーハンがでたり、足元を下水が流れていたりと、不潔でいいかげんな店だったが、わたしたちはビニール袋から百円玉を鷲掴みにしてはテーブルにばら撒き、大名にでもなったかのような気分だった。
 柏葉さんは酒も煙草もやらなかったのだが、その日だけは飲んでいた。いたずらに紫煙を吹いていたようにも記憶している。一階でたらふく飲み食いしたあと二階へいって中国女が相手をするカウンターについた。柏葉さんはニコニコしながら中国女と話通しだった。
 ことのきっかけは忘れたが、わたしとHが口論になった。殴り合う寸前で柏葉さんや周囲の客に止められ、やがてすぐもとの鞘に収まったのだが、それからHとケンカ談義が始まった。先刻のケンカに話が及ぶと、腕におぼえがあるHは、わたしを半殺しにするつもりだったという。そしてふいに、中国女に夢中になっている柏葉さんを親指で指しながら言った。
「でも、オレは柏葉さんとはゼッタイやらない」
「どうして?」
「だって、この人ボクサーだもん」

 
 わたしを魅了するボクシング。Hの一言以降、柏葉さんに対する私の見方は一変した。それも調べてみたら、日本ジュニア・ライト級チャンピオン、東洋ライト級チャンピオンで世界戦を二度戦っているではないか。ボクシングに多少でも造詣のある者なら分かるが、日本人専用の軽いフライ級と違って、中米ボクサーがひしめくライト級以上のチャンピオンの価値は高い。
 そして柏葉さんが現役だった70年代のボクシング界は、その最高峰に、アリ、フレージャー、フォアマンらを頂きまさに絶頂期で、映画や小説などのフィクションが到底及ぶことができない壮絶なドラマを繰り広げていた。日本でも、大場正夫から始まり、柴田、輪島、石松、花形、小林といった綺羅星のようなチャンピオンが登場する黄金期で、子供のわたしは東京12チャンネルの放映に釘付けになり、ボクシングマガジンに喰い入り、「あしたのジョー」を貪り読んでいだ。
 

 柏葉さんからボクシングの話を聞くことはとても楽しかった。Hを抜きにして二人で飲み歩くことが増え、それまでとはうって変わりわたしが聞き役、質問ばかりしていた。話をほとんど覚えていないのが今となっては残念だが、柏葉さんの声や笑顔は鮮やかに呼び戻すことができる。日本武道館でのフォアマンの世界戦の話もこのとき聞いた。
「あの黒んぼ、チョコチョコよく動くんだ」
 ボクシングファンなら知らぬ者のないアルレドンドを「あの黒んぼ」と呼ぶ柏葉さんに、わたしはほとんど尊敬の念を抱いていた。
「フォアマンと会った?」
 ボクサーが昔日を語るのは辛いことなのか嬉しいことなのか、今もって判断に迷うが、若かったわたしのそんなミーハーで下らない質問にも柏葉さんは時に真剣な顔で応えてくれた。

 日雇いの現場は50人ほどの人夫がいたが、柏葉さんの過去を知っているのはわたしとHだけだった。現場には、そこを牛耳っている二人の男がいた。刺青が半袖から覗く稲川会系の元ヤクザと身の丈が185を超え体重も100キロ近い元船乗りのK。目がロンパリでいつもニコニコしている柏葉さんは二人に軽んじられ、とくにKにはよく怒鳴られたりしていた。確か、二人で夜の吉原を歩いていたときだったとおもうが、その日もKにバカにされた柏葉さんに尋ねたことがある。
「Kとやったら勝てる?」
 柏葉さんは笑顔を消して答えた。
「一発だよ」
 そして、わたしの眼前で右の拳を握りしめると、あたかもそれが他人のものであるかのように恐ゝと小さな声で続けた。
「死んじゃうぞ」
 わたしは、嬉しさにゾクゾクしたのを覚えている。

 忘年会から何カ月か過ぎたころ、柏葉さんは現場に姿を見せなくなった。Hも消息を知らなかった。柏葉さんはどこか住み込みで働けるところを探していたので、たぶん見つかったんだろうとおもった。わたしは淋しさよりも、よかった、と祝福する気持ちのほうが強かった。
 ボクサーは、その青春期の文字どおり全てをボクシングに捧げる。栄光を手に入れるため喰いたい物を喰わず、時に水すら飲めず、毎日を練習と節制に明け暮れる。そして、ごくわずかな者だけが、大金を手にし、周囲からチヤホヤされ、凡人では到底拝めないような煌びやかな世界を垣間見ることができる。しかし、栄光の座を明け渡した瞬間、それらは瞬く間に去り、ほとんどの場合あとは見向きもされない。
 忘年会のコンパで柏葉さんが、ふっと吐息のように漏らした言葉が忘れられない。
「こうやって女の子としゃべりながら酒を飲むってのもイイもんだなぁ」
 世界チャンピオンにはなれず、ボクシング以外のことは何も知らず何もできないまま、結局山谷で日銭を稼ぐようになった柏葉さんを、世間は勝者と呼ばないかもしれない。が、自分だけにしか見えない夢を追い続け、眩いカクテル光線の降るリングのなかで拍手と歓声を浴びながら何度も勝ち名乗りを受けた柏葉さんを、わたしは敗者だったとは思わない。

 パソコンで柏葉守人を検索すると、現役時代の痩せた柏葉さんに会える。動画はない。けれど、わたしは動く柏葉守人を知っている。
「柏葉さん、シャドウみせてくれない?」
 二十年前、柏葉さんは夜の歩道で、日本J・ライト級、東洋ライト級チャンピオンのシャドウ・ボクシングをわたしにみせてくれた。
 
 柏葉守人…29戦23勝(16KO)5敗1引分け。
      網膜剥離で引退。   12・10・12



   やさしく悲しい目をした男たち  その二


 昭和には、向こう三軒両隣、という和やかな言葉があった。力道山や長嶋が活躍していたわたしの幼少期は、路地や原っぱに子供が沢山いて、三軒どころか六軒くらい互いの家を行き来していた。わたしの生家の向こう側は、エヅレさんという土地持ちが三軒分を有していた。同じ年頃の娘が三人いたから一人嫁にやるよ≠ネど
という大人たちの会話を聞いて育った。
 エヅレさん家(ち)のお父さんは靴をつくっていた。角刈りの頭をしていて色が白くふくよかな優しそうな
人だったが、いま、近所のお父さんたちの記憶と比べると笑った顔というのが思いだせない。通りに面した作業場で胡坐になり皮をコツコツとハンマーで叩いていた。
 その作業場にはボクシンググローブがぶら下がっていた。確か、まだ小学校に上がる前だから、ボクシングとういうものを理解していたかどうか定かではないが、一度、興味を示したわたしに、エヅレさん家のお父さんはそのグローブを触らせてくれたことがあって、ずいぶん畏敬したように覚えている。
 小学4年生のころ、エヅレさん家は引っ越した。靴屋を開くからだとも、だまされて土地を取られたからだ
とも、大人たちは話をしていた。既に、入り婿、抵当、ヤクザ、などという言葉も理解できる年頃だった。やがてエヅレさん家は商店街に小さな靴屋を開き、半年後
に店を閉じた。その後の消息は、ついに大人たちの口から聞くことはなかった。
 頭を角刈りにしたエヅレさん家のお父さんは無口で、背中を少し丸めながらいつも一人でコツコツ靴を作っていた。そして、若い頃にボクシングをしていた。

 
 小学校へは近所の子供らが集り列を作って登校した。その道すがら、いつもすれ違う、痩せて背の高いお兄さんがいた。バッグを右手の指で肩に引っかけ左手をズボンのポケットに入れ下を向きながら歩いていた。わたしは通り過ぎる彼を見上げては、カッコイイなとおもっていた。ある日、向こうからやってくる彼を認めた年長の子供が言った。
「リュウ ソリマチだ」
 すれ違いざまに別の年長の子供が言う。
「鈴木モーターで働いてんだって」」
 過ぎ去るその後ろ姿を振り返りながら、また別の
年長の子供が言った。
「ボクシングやってんだって」
 竜反町は強いボクサーではなかった。というより、もどかしいボクサーだった。中学生のとき世界J・ミドル級チャンピオン輪島功一に挑戦した試合をテレビで見
たのだが、わたしは輪島が好きではなかったことも手伝って、当然、竜を応援していた。が、竜はパンチをださなかった。せっかく輪島をロープ際に追い詰めてチャンスだというときにも、パンチを出さず攻めあぐねている。テレビの前のわたしはイライラしていた。さらに、輪島に取って代わったチャンピオン、オスカー・アルバラード戦でも歯がゆいくらいに攻めなかった。
 しかし、わたしにとって竜反町というボクサーは、強いか弱いかというよりも、カッコイイという存在であったということがすべてであったような気がする。「あしたのジョー」を読んで育ったわたしには、ボクサーというのは、痩せて飢えていて、孤独で純粋で心に陰りがなければいけなかった。そういった意味で、やはり幼少期に受けたショックはこの歳になっても続くのか、いまだに、スタイルとしてのボクサーといえば、竜反町のことである。
 ネットで見る竜は角刈りをしている。その来歴をたどると、わたしたちの街にいたのは日本ウェルター級チャンピオンになる二、三年前ということになる。
「あっ、リュウ ソリマチだ」
 小学校の登校時、バッグを肩に引っかけ俯きかげんで歩いてくる「リュウ ソリマチ」は、背が高く痩せた体に伸ばした髪を風になびかせ、本当にカッコよかった。

 
 小学生高学年の頃から中学、高校にかけて、テレビで放映されるタイトルマッチはすべて見ていたとおもう。輪島功一というと、世間では偉大なチャンピオンとしてもてはやすことが多かったが、わたしは好きになれなかった。ガッツ石松もあまり好きではなかった。確かに、中重量級チャンピオンとしての価値は認めるものの、結局、容貌とかボクシングスタイルがわたしの好みではなかったのだろう。だから、引退した輪島が隣町に団子屋を開いたというニュースを聞いても、母親たちはミーハー丸出しで見に出かけたが、わたしは興味がなかった。
 その後の輪島はテレビや雑誌に露出することが多かった。露出すれば好きではなくともやはり見るし、そして沢木耕太郎のものを読むなどしているうちに彼についての見方が変わっていった。あれはバブルの頃だった。わたしは、たまたま手に入ったチケットがあって後楽園ホールのリングサイドにいた。つまらない試合が続くなか突然、首にタオルをかけたセコンドの輪島が現れた。
 迫力があった。崩れた顔と大きい声で懸命に自分のジムの選手を叱咤する、元世界J・ミドル級チャンピオンは、リング上のつまらない殴り合いよりはるかに迫力があった。が、その頃は既にメディアから遠ざかっていたせいか、周囲の若い観客は誰も輪島に注意を向けない。ただわたし一人だけが、試合そっちのけで輪島を見ていた。
 たぶん、時代が変わったのだとおもう。その日後楽園ホールでわたしが見ていたものは、なにか、わたしが知っているボクシングではなかったような気がする。選手はもちろん、ホールの空気も観客も含めてわたしには、なにか馴染めない異質な感じがした。あの時、わたしにとってのボクシングは、少年期に嫌いだった輪島の存在だけだった。

 
 わたしは日本人ボクサーのなかでは、柴田国明が一番好きだった。そのスピード、テクニック、破壊力はとにかく綺麗≠フ一言だった。特にディフェンス。顔をほんの少し真横に動かすだけで相手のパンチを紙一重で交わすスリッピングは、ほとんど芸術的だった。
 1ラウンドで相手をマットに沈めるハードパンチャーだったが、負けっぷりもよかった。WBAJ・ライト級、挑戦者ベン・ビラフロアとのリターンマッチ。1ラウンド、柴田はビラフロアが放った、たった一発の強打でマット上に大の字に倒れた。荒い呼吸に胸を上下させるだけでピクリとも動かない。受けたダメージに抗おうとする気配も全くみせない、そんな柴田もやはり綺麗≠セった。
 柴田の奥さんも綺麗だった。実はどんな顔をしていたのか、もう記憶にはないのだが、清楚な美人だとおもったことは覚えている。引退した柴田はわたしの街でジムを開いた。友人と見に行った。ガラス張りの真新しいジムから練習生が一人サンドバッグを叩いているのが最初に目に飛び込んできて、その奥に立っていた髪の長い若い女性が奥さんだったとおもう。そして、確か黒いワンピースを着ていた奥さんが話をしている、こちらに背を向けた小作りな男こそ、WBC世界フェザー級、WBA世界J・ライト級チャンピオン、柴田国明だった。わたしの目は柴田に釘付けになった。憧れのチャンピオンの一挙手一動を追い続けていた。すると、それに気づいたのか、チャンピオンが、つかつかとこちらに歩いてくるとドアを開けた。
「君たち、中に入って見てもいいんだよ」
 ちょっと田舎訛りのある、リングの上でインタビューを受けたときと同じあの高い声で、そのときチャンピオンとわたしとの目が合った。優しい目だった。
 いまだに、なぜそうしたのか自分でもわからないのだが、チャンピオンからそう語りかけられたとき、わたしたちはまるで何か悪いことでもしたかのように一目さんで走って逃げてしまった。ただの冷やかしで見に来ていたのに、まさか憧れのチャンピオンから話しかけられるとは思ってもみなかった、当時のわたしたちのナイーブな心が罪悪感を感じてしまったのかもしれない。
 けれど、それでよかったとも思っている。何故なら、柴田国明というわたしの偶像は、接点を持たなかったことによって、いまもその神聖を壊すことなく綺麗≠ネままで、わたしの胸の中にあるからだ。

 
  駅近くの繁華街にある「スタミナ亭」は、東洋J・ウェルター級チャンピオンだった渡辺亮(まこと)が中華なべを振るう店として地元の人間には知られていた。わたしが小学生だった頃からあったから、大分長いこと営業していたが、数年前に渡辺さんが亡くなってからは奥さんが飲屋として暖簾を残している。わたしもその存在は知っていたが、高校卒業後はずっと東京で暮らしていたこともあって、はじめて「スタミナ亭」を訪れたのはずいぶん後のことだった。
 ガラス戸を開けるとカウンターの向こうに、何千発ものパンチを受けて顔を崩した渡辺さんがいた。大きかった。やはりJ・ウェルターともなると大きい。この人が素人を本気で殴ったら間違いなく相手は死ぬだろう。最初にそんなことをおもったのを覚えている。
 あまり綺麗とはいえない「スタミナ亭」の奥は三畳ほどの座敷になっていて、そこの壁一面に、現役時代の渡辺さんの活躍を報じる新聞や雑誌の切り抜きがセピア色になっていた。ビールと餃子とラーメンを平らげたわたしがそれをずっと見ていると、渡辺さんのほうから話しかけてきた。当時わたしはフリーのライターで夕刊紙にも記事を書いていた。わたしが新聞社の名を告げると、やはり持て囃された昔日が懐かしいのか、渡辺さんは嬉しそうな顔をして饒舌になった。
「もうちょっとしたらスナックのおネエチャンたちがラーメン食べにくるよ」
 帰ろうとするわたしを引き留めるかのように、渡辺さんはその日の最後にそう言った。
 二度目か三度目の時だったとおもう。エズレさん家のお父さんのことを話した。
「エヅレさんの前のアキバさんか」
 と、渡辺さんも奥さんも、エヅレさんとわたしの家のことを知っていた。竜反町のことも知っていた。何を話したのか、エズレさんは運送屋に勤めてる、という言葉以外どうしても思い出せないのだが、唐突にこの人かも知れない≠ニ思ったことは覚えている。
 わたしには、忘れられない幼児期の記憶が一つある。ある晩、家の玄関に白い背広を着た大きなおじさんが現れた。白いハットを被り、茶色のボクシンググローブを持っていた。そして、確か母親と話をしていたかとおもうが、その大きなおじさんは、わたしを見おろしてこう言った。
「ボク、ボクサーにだけはなっちゃいけないよ」
 まだ家に蛍光灯のない頃で、夜ともなれば薄暗く頼りない電燈のオレンジ色の世界があるばかりだった。幼児ながらわたしはそのもの悲しさが憂鬱で嫌いだったのだが、その声はそんな風景とは正反対に華やかで、言葉の内容とは裏腹に溌剌としていた。
「選挙があって、それの応援に駆り出されたことがあったなぁ。そのときかなぁ」
 もちろん渡辺さんは覚えていなかった。また、わたしの記憶にある声の主が渡辺さんであるともかぎらなかった。ただ、いずれにしろ、言葉を持たない幼児のその時の気持ちをいま言葉にしてみれば、ボクサーにはなるなと言っておきながら、そのボクサーは幸せそうだった。
 渡辺さんに、どうしてボクサーになったのかと尋ねたことがあった。
「仕事だよ。鋳物職人とおんなじさ。仕事がボクシングってだけのことだよ」
 そんなようなことを言っていたとおもう。熱い言葉を期待していたわたしは、なにか肩すかしを喰ったような気持ちになった。酔客に絡まれ、わたしだったら激昂するような言葉を浴びせられても、そしてその気になれば一秒で相手を黙らせることができるのに、渡辺さんは崩れた顔を穏やかにして酔客の言うがままになっていた。仕事がそうさせているのはもちろんなのだが、そこには東洋J・ウェルター級チャンピオンの矜持はまったくなかった。そんなこともスタミナ亭≠ゥら足が遠ざかっていった一因かもしれない。


 風の便りに渡辺さんが亡くなったことを知りスタミナ亭≠ヨ行った。いや、看板ははずされ赤ちょうちん一つがあるだけだった。暗く煤けた店内には、渡辺さんを偲ばせるボクシング関係のものは取り払われ、王貞治と肩を並べた晩年の真新しい写真が一枚、白い額に入って壁に掛かっているだけだった。
 奥さんはわたしをみても何も言わなかった。わたしも何も言わなかった。
「チャンピオンがつくったラーメンはウマかったなぁ」
 結局、ビール一本と玉子焼きがカウンターの上で片付くまで、写真の渡辺さんにそう呟いただけだった。
 渡辺さんがつくるラーメンはボリュウムがあって本当に美味しかった。しかし美味しかったという想いでがあるだけで、残念なことにその味を思いだすことはできない。





                 13・04・14


   
   あの日の傘


  大地震で二階の部屋にある本が崩れたので一階に移すことにした。こういうことをしだすと、本にはそれぞれ思い出すことがあったりするものだから、拾うたびに立ち止まることになってしまいはかが行かない。
 講談社学術文庫「中国通史」。著者の堀敏一は、中国古代史研究における第一級の学者である。
 専門書と違い一般向けに大手出版社の編集の手が入っているものの、所々にあの無骨ともおもえる熱い息遣いの感じられる文章が垣間見える。だからそれを読む者には、先生がどれほど華奢で淡麗でもの静かで上品な姿をされていたかを想像するのは難しいと想う。
 大学の四年間、堀先生は私の在籍するクラスの担当教授だった。私はウイグル民族の勉強をしたかったので先生のご指導を仰ぐ部分はあまりなかったのだが、研究室にはよくお邪魔をした。たいした用もないのにお邪魔しては、先生の話を聴くのが好きだった。大変失礼な言い方になるが、初めて接する「学者」という人種に、非常な興味をもっていたのだとおもう。先生にはさぞかし迷惑なことであったろう。
 大学院へ行くつもりだった私は、入学して一週間もたたないうちに先生のところへ相談に伺った。どんな話をしたのかはほとんど覚えていない。学生課で入院するのに百万円かかると聞かされていて、とてもそんな金は家になかったから、研究室へいく前に進学は諦めていたのだが、先生は、
「高いよね。なんとかしなければとはおもっているんだけど」
 とおっしゃって、それでも前年の入院試験の問題を見せてくださった。高額な費用もさることながら、その全く読めない漢字の羅列の試験問題を見た私は、大学院というところは自分のような人間がいくところではないと悟った。そのことを直接口にしたのか、それとも、きっと呆けた顔をしていた私の心のうちを斟酌された先生は
「英語ができれば大丈夫だよ」
 と言ってくださった。



「中国通史」のはしがきはこう結ばれている。
「…最後に一言させていただければ、私の研究生活のなかでながらく苦労をかけた妻輝子にこの本を捧げたいと思います」
 奥様とは、砧公園の公衆電話からご自宅へ電話した際にそのお声を聞いたことがある。ゆっくりとした静かな声だった。いつだったか、先生と結婚とか家族について話をしていたときがあって、若すぎる私が、学者の家族観とはどういったものかと、随分、無礼で不躾な質問をしたことがあった。
「安らぎじゃないかな。家庭というものは、やっぱり安らげるよ」
 という言葉しか覚えてないが、当たり前ではあるが先生も家族を大切にされていた。というより、その笑みを含んだ上品な口調からは窺い知れなかったが、いまにして思えば、先生の家族愛は人並み以上のものであったかもしれない。
 先生は新宿高校から東大へ進まれたが、私の記憶が正しければ、その高校、大学時代を親戚のもとで過ごされていた。御尊父と御母堂についての話はついに先生の口から聞くことはなかったから、いろいろご事情がおありであったのだろう。先生は、本当は日本史がやりたかったといっておられた。それが時代や社会の状況やそういうご事情もあったのか、ままならなかった。それでも歴史学への情熱は何物にも代えられなかった。東大卒業の際には、このまま中国史の研究をつづけさせてほしいと親戚に頭を下げたとおっしゃっていた。
 また、あれは三年の冬だったか、クラスコンパ開催の通知の電話をしたところ、「娘が風邪をひいてね。病院へ連れていかなくちゃならないから」と断られたことがあった。当時、先生は五十代後半であったとおもわれるが、そうであれば、御令嬢は小さな子供ではないはずであるが、そんなところにも先生の家族を大切に想う気持ちが顕れているとおもう。
 コンパでの先生との語らいはことの他楽しかった。酒も煙草も嗜われず―酒の入ったグラスを口へ運ぶのを目撃したのは四年間で一度だけだった―、真面目一辺倒で冗談の一つも言われるようなことはことはなかったが、場はいつも盛り上がった。
 学生の話にもよく耳を傾けてくださった。私が酔って「イスラム教が豚を喰うのを禁じているのは、マホメットが豚を喰って腹にあたったからだ」とバカなことを言ったときも、
「イスラム教はそんなに合理主義かなぁ」
 と笑われたあと、
「…でも、案外そうかもしれないなぁ」
 などと真顔で沈思されるので、「先生、冗談ですよ」とも言えず狼狽したことがあった。先生は当時既に史学の権威ではあったが、上からの目線で軽々と学生の質問に答えるところがまったくなかった。先生にしてみれば学部の学生のそれも酒の席での話にまともに相手などできない、といったところだったのかもしれないが、下らない俗事になど関心がなく少年のような探求心の赴くままに、ただ坦々と研鑽を重ねられている、そんな方だった。
「君もそうおもう?」
 先生のやさしいお声がいまも蘇る。


 自惚れて言えば、先生は私に期待して下さったとおもう。蔵書を貸して下さり、国会図書館の使い方を教えて下さり、東洋文化研究所への紹介状を書いて下さり、史籍講読や演習で私が発表するときは必ず「みんな、ちょっと静かに聞いて」とクラスを諭すのだった。文献資料に目を落とし黙って聞きながら、所々ふむふむと首を上下に振られるのを発表しながら垣間見ては、名状し難い感情がこみ上げてきたのを覚えている。卒論のテーマを決める時も
「君がウイグルをやるのはおかしいよ」
 と、先生にしては珍しく理不尽なことを言われるのでずいぶんびっくりした。
 なのに私はちっとも勉強しなかった。歴史ではなく音楽へ心が行ってしまったからである。
 もともと合唱部に所属していたのだが部費が払えずそこをクビになっていた私は、ポップスをやりたかったこともあって自分でサークルをつくった。教室や掲示板を使うのに大学の認可が必要だったから、正式なものにしようと先生に顧問をお願いした。結局、当時駿河台にあった記念館でコンサートを一回開いただけでたいした活動もないまま消滅してしまい、私は学業も音楽も全うしなかったのである。
 コンサートは十二月二十三日だった。吐く息も白い記念館で、知り合いばかり二十人ほどが客として集まっただけの、応援部の練習の声が止まないなかでのコンサートだった。出来が悪く大恥をかいた私が仲間とアンプやスピーカーを搬出しているところへ先生が現れた。まさか来られるとは思ってなかったので、大変バツが悪かった。
「こういうのをやるのはお金がかかるでしょ?」
 先生はそう言われただけだった。



 あの日は、どういう用で研究室へお邪魔したのか覚えていない。確か、卒業も目の前の十二月のことであったから卒論のことであったろう。帰宅される先生と外へでると糠雨であった。私は傘を持っていなかった。正門のところまでくると先生は折りたたみの傘を広げ右手で持つ柄を軽く私のほうへ寄せるので、自然、私は先生の差す傘に入った。瞬時に、自分が傘を持つべきであると思った。だが、何故かその言葉が出てこない。いくら若輩のたわけ者だとはいえ、目上の、それも恩師とも呼べる人にとって代わって傘を持つくらいの常識は私にはあった。が、あの時それができなかったのだ。今思い返してもまったくわからない。頭ではわかっているのに「傘をおもちします」の一言がでてこない。先生が何を話されても上の空で、言わなくちゃ、言わなくちゃ、とそればかり考えながら、とうとう言いだせないままお茶の水の駅まできてしまった。西武線を使われる先生と何処でどのようにして別れたのか、今もまったく想いだせない。それくらい頭はまっ白だったということだろう。その後も卒業まで、そのことを気に病んでいたような記憶もある。
 卒業式にも謝恩会にもでなかった私が先生と最後に言葉を交えたのは卒論の面接のときだった。「中世ウイグル帝国におけるヤグラカル朝とアディス朝の確執、及びその西遷」という私の論文はまったく酷いものだった。オリジナリティなど微塵もなく、孫引きのオンパレードで、先生の失望、というより白けた声が耳に痛かった。



 床に散らばった本にはサイエンスものもある。相対論、量子論、時空、タイムマシン…。もし大学時代に戻れたとしても、もう一度ウイグル民族史や中国史を勉強したいとは思わない。だが、あの糠雨の夕暮れ時の大学正門前には戻りたい。戻ってやり直したい。
「先生、傘をお持ちします」
 今、「中国通史」の頁を閉じながら、そんなことを考えている。


                 11・08・05