ガナがもどってきた。
「飛行機は着いた。そして二時になったら出発するそうだ」
 そうか、出るか。私は自分の部屋へいき寝酒にしていたアリヒを持ってきた。
「ガナ、お別れだ。乾杯しよう」
 私がそう言うと、ガナはほんの少しだけ唇を動かしたが、私を見つめたままさしだすグラスを受けとった。
「これから何処へいく」
「ダダルへいこうと思う」
 ガナのグラスにいっぱいに、自分のそれにも半分ほど注ぐと、アリヒの壜は空になった。
「ダダルか。オノン河を渡らねばならない」
 私は、唄うべき歌をまだ探せないでいた。しかし口下手な私にはそれが言えない。そんな気持ちを知ってか知らずか、ガナはなかなかグラスをあげようとしない。窓から見える草原は、冬の終わりを告げる陽光で輝いている。
「渡れるといいな」
 そう言ってガナはゆっくり笑うと、そっと、アリヒの滴を指ではじいた。


                                おわり

(’93 某月某日書く)

をおわらせたようで、いつの間に晴れたのか、背後から射しこむ光で皿の肉汁がキラキラしている。私は尋ねたいことをおもいだした。
「ガナ、君は馬とジープと、どっちに乗るほうが好きだ?」
 ガナは、何故そんなつまらないことを訊くんだという顔で応えた。
「好きも嫌いもない。ジープがあるのだ、乗るしかないではないか」
 そして、空港を見てくるといって、部屋を出ていった。
 結局は、停まる者と流れる者に分かれるのだと思った。ガナの言葉に失望したのではない。ガナは、蒼き狼の末であるまえの、一人の人間としての業を見せただけだ。聖山の村から山頂へ向かう途中、村とは離れて孤高の幕舎を張る女がいた。永遠の山≠ェ望める美しい草原で二人の息子と暮らしていた。あのとき、頂を見て美しいと思い、女を見て何故、と思ったのは旅人の感傷にすぎないに違いなかった。彼女もまた、業に従う人間なのだ。それは、生まれおちた場所と時代を選ばないだろう。種を播くか、馬上にあるかの区別を問わないだろう。そして、食べては眠り、交わっては戦い、己が道の果てで幾らかの後悔をするだろう。チンギスハーンを大征服の旅へ駆り立てたものは、流れゆく者としての業ではなかったか。
 私はダイニングに一人居て煙草を吸いつづけた。そしてポケットから地図をとりだすと、この国の北東部へ指を落とした。やはり、ハーンの故郷を訪ねてみたいと思った。ウランバートルからハーンが眠っているというヘンティ山を東へ進みヘルレン河を渡る、草原を北上して今度はオノン河を渡り、彼の生誕の地ダダルへ向かう。紫煙のなかで、そんな行程を頭に描いた。
 ―オノンとヘルレンは、どのくらいの河なんだろうか――
 私は、大きい河は渡れない、というガナの言葉をおもいだしていた。
 白いデールの少女、ツェーンダリが、もう昼食を持ってきた。彼女に河のことを訊いてみたかったが言葉がわからない。微笑みながら、何か言いたそうな私の顔をのぞきこみ、干し肉とパンと赤いジュースをテーブルの上にならべた。
 ―ツェーン、きみの指はきれいだな。だから、こんどくるときは指輪をあげよう。ぼくは貴族ではないけれど、きみに金の指輪をあげよう。こんどくるときぼくは馬にのる。馬にのってきみに会いにこよう。もっとはやく、会いにこよう―
 私は日本語で、ツェーンはモンゴル語で、通づるはずのない会話がつづいた。

 
を渡るたびにガナのハンドルは慎重になった。時には一人でジープから降りて、河の凍り具合を目と足で確かめながら向こう岸まで歩いていった。今年のモンゴルは雪が多く暖冬だったために河を渡るのが難しいという。
「凍りがうすいのだ、おまけに深くなっている。道筋を誤ると大変なことになる」
 そろそろと進めるジープが河の真中あたりにきたとき、ガナがそう言った。私は、言葉を失った。
「心配するなっ、この谷間の河は小さいから大丈夫だ。しかし、大きな河だったらたぶん渡れなかっただろう」
「橋はないのかっ」
「モンゴルに橋はないっ」
 ジープは何度も速度を落とした。何度も前輪が空転した。何度もスタックし、背後で何度も氷の割れる大きな音を聞いたが、私もガナもふりかえらなかった。我々は、河を渡りつづけていった。
 一つ山を越えては草原が広がり、草原をぬけては山を登った。ガナは一度も止まらない。腹が空くと走りながら羊のソーセージをかじった。二人ともぐしゃぐしゃと噛んでではアフガン葡萄のジュースとヤクの乳で流しこんだ。そうして、次第に高みへ登っていった。
 何度目かの丘陵のとき、風が大きく広がった。蒼く凍った河の遥かを見下ろした先に、聖山の村があった。我々は、獲物を見つけた狼のように一気に駆けおりていった。
 村は、百戸ほどの幕舎が北西の風をさけるようにして、河原からゆるやかにつづく斜面に集っていた。山頂はさらに二時間ほど登った先に見えるという。ガナは夜の宿の交渉に出かけていった。
 そろそろ日が暮れようとしていた。
 幕舎からは夕げの煙がのぼっている。河へ水をとりにいく女、土ぼこりをあげて帰ってくる男、木柵に追われる羊たち。落日が、変わらぬ物語を染めてゆく。あてどなく立ちつくす私のまえを、子どもたちははじけるように、娘たちは含羞の笑みをうかべて通り過ぎてゆく。私は、どんな顔をしてただろう。傍らに迷いきた一頭の馬は私と目が合うと、そのまま美しく去っていった。
 
 
「簡単なことだ中国人と朝鮮人はみんなやっている。そしてツェーンダリを妻にすればいい」
「ツェーンダリ?」
「ホテルでおまえの世話をしている白いデールの女だ。おまえが到着した日から、あの日本人は独身なのか、いつまでいるのか、しつこくおれに訊いてくる」
 水面を渡る風は冷たく、手は手袋をしていても外に出していることが辛い。私は煙草を吸いたいのを我慢して、両手をポケットへしまった。
「白露も 夢もこの世も幻も たとへて言へば ひさしかりけり=cか」
「何だそれは、英語ではなしてくれ」
「日本の古い詩歌だ。蜃気楼をみておもいだした‥‥もう、そんな恋ごころももてなくなってしまったよ」
「どういう歌なんだ?」
 私は無言で遠い幻を見つめたまま、ガナの問いには応えなかった。
「おまえは、日本人にしてはいい旅人だ」
「そうかい? ガナ、王様のような暮しは君がすればいいだろう」
「何をいう、おれはモンゴル人だ‥‥さぁ、出発するぞ。ここから先は休みなしだ、急がないと日暮れまでに着けないからな」
 そう言ってガナは踵を返した。風は一層強くなり、それに従う私の背中を押した。
「これから難所がつづく。用意はいいか」
 ガナは再びアクセルを踏み舵輪をアルタイの山々へ向けて回した。私は、見えなくなるまで蜃気楼を見つめていた。
 山道に入ると草原は片側の窓からしか望めなくなり、やがてそれも見えなくなっていった。両側に岩山が切りたつ谷間がつづき、そこを流れる河のすべては蒼く凍結していた。バウンドは徐々に激しさを増していく。ジープはすでに自転車ほどに速度を落としていたが、もはや体をまっすぐに支えていることはできなくなった。窓の上の把手に両手でしがみついても、頭といわず肩といわず何度も車体に打ちつけられた。何も言わないガナの様子を窺う余裕もなかったが、ただ緊張と力感だけが伝わってくる。「これなら馬できたほうがよかったな」軽口をきこうにも無言の圧力といったものが私の口をふさいでいた。ことのほか谷間の河
 私は旅立たねばならないと思った。
私は、幕舎を飛ばす風に吹かれ、十里に響く馬蹄を鳴らし、鬨を上げる歌を探しに行かねばならないと思った。

 白いデールを着た娘が、朝食を運んできた。
「今朝も暖房がきてないよ」
 朝の挨拶のつもりで言ったのだが、ガナは通訳してくれない。仕方がない、といって早くも牛肉とジャガイモのはいったスープ皿の音をたてている。
「ボイラーマンも二日酔いかい?」
「あぁ、そうかもしれないな‥‥もう、ソ連はないのだ。故障したところを修すにはモスクワのボルトとウクライナのナットと、ハバロフスクのスパナを調達しなければならない」
 ガナの言いたいことはもちろんよくわかっていた。計画経済の頓挫は、チンギスハーンを復活させたかわりに全てのことをやりっ放しにしたまま、この国をおきざりにした。かつて大征服より帰国したハーンが、金糸銀糸に彩られた他国の衣をまとう同胞を見たとき、図らずもついた嘆息を、いまこの国の誰がするというのだろう。
 窓の外に目をやると、また雪がちらつきはじめていた。
「永遠の山≠ヘずっと晴れていたのに」
「あんなことは珍しい。いまの季節このあたりは半日で空が変わるからな」
 永遠の山≠ワでは、ガナと冬の大地をひたすら走りつづける旅だった。夜明
   荒野に風の韻を聴き
   砂上の星を見上げる
   朽ちはてぬ遺跡に憶い
   そのつめたさを愛しむ
   唄を興じ 舞い 食を乞い
   
   夢みて望むは遥かな蒼狼
   やがて月日は流れ
   すでに友の姿は見えない
   一人瓢箪と繋るのを憂い
   塵中の身を笑う
   昔日の憧憬いまは幻
   ひとたび別れれば明日は茫々
けまえに出発し日暮れまで、ガナの運転する軍用ジープの硬く狭い椅子に揺られて行った。
 荒涼と茫漠に冬枯れた草原には何もない。人も馬も、道しるべも墓も。時おり羊の群れと幕舎が点在する以外、遥かに見えるアルタイの山々まで駱駝のこぶより高いものは何もなかった。
 あまりにもとりとめなく広がる空と大地はどこまでも、いつまでもつづきそれは、自分の居場所をわからなくしてしまうほどに表情を変えることはなかった。が、ガナにとってはそうではないのであろう、絶え間のないバウンドは大小の一つ一つが彼の体に刻みこまれ、地図となっているかのようだった。
 ―モンゴル人と日本人が似ているなんてウソだ――この果てしのない荒野にあって逡巡することなく舵輪を操る蒼き狼の末裔の鋭い横顔を見たとき、よく言われるような邦人との、少なくともいまの日本人との形質的な酷似性というものを、私はまったく信じなくなっていた。
 ハラウス湖ではじめて休息をとった。波打ち際を少し遠めに立つと、アルタイの山々から遮るもののないにまかせて吹きつけてくる風が、強く、矢のように頬を射してくる。その風に運ばれて白い雲は、手を伸ばせば届きそうに近い。聞こえるものは、荒野を踏みしめる靴音と、山の神々の咆哮だけだった。
 私が水面の青の美しさに見とれていると、その水で顔を洗っていたガナが何かを指して叫んでいる。見ると、アルタイの山々がなだらかに低くなって地平線に沈んでゆくその西側に揺らめくものがある。蜃気楼だった。はじめて見る不思議な幻影は、たしかに、オアシスが地平線いっぱいに揺れていた。
「モンゴルが好きなのか?」
 目を瞬かせながら砂利音をたててくるガナにハンカチを渡そうとしたが、ガナは首を横に振った。
「好きだよ。まだ若かったころからずっと」
「だったら住めばいいではないか」
「この国に?」
「ああ。日本で金を稼いで中国でたくさん物を買って、それをモンゴルで売るんだ。王様のような暮しができるぞ」
「ハハハ、それは密売だ。そんなことできるもんか」
   荒野に風の韻を聴き
   砂上の星を見上げる
   朽ちはてぬ遺跡に憶い
   そのつめたさを愛しむ
   唄を興じ 舞い 食を乞い
   
   
 ドアを開けるが早いか、ガナはそういうと眼端の鋭い赤銅色の顔で申し訳なさそうな表情をつくってみせた。
「パイロットのやつ、二日酔いでまだ寝てるんだ」
 県の観光局に勤めるこの男は、私のような旅人を相手にする不定期のドライバーで、酒も煙草もやらずいつもハンティングと黒いジャンパーをその逞しい短躯にまとっていた。歳は私と同じくらいだろうか、プアー・イングリッシュだというわりには結構な英語を話す通訳でもあった。
「二日酔いに決まっている。夕べアリヒを飲みすぎたんだ、きっと」
「まあ、いいさ。急ぐ旅じゃない」
 きのう私とガナは、アルタイ山中、地元で永遠の山≠ニ呼ばれる聖山の遠征から帰ってきた。私はそのままウランバートルへ戻るつもりだったが、降りだした雪で空港はロックアウトされていた。ウランバートル行きは日に一便、有視界飛行のため天候が悪いと運行しない。きょうもまだ、途中の給油所を離陸していない様子だった。
「十一時になったらもう一度見てくる」
 ガナは萎れたハンティングを被り直して出ていこうとした。
「ガナ、朝食一緒にどうだい?」
 こんどは、切れ長の眼をさらに細くしてサンキュウといった。

 焦燥に駆り立てられるようにして家を出てきた私は、一体どこへ行こうとしたのだろう。若き日、彼の国は遥かなる憧れの地だった。目的も理由もなく、ただ旅立つことばかりを考えていた。だが、それをしないままにしてきた私・・・。晩秋の雨の夜、酒とつれづれにまかせてなぐり書いた落書きは、雨音が強くなるにしたがって無聊の慰めではなくなっていった。
有馬千造

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旅93 蒼狼は見えず
 夜は、この村で歴史を教えているというエンフさんが、茹でた羊の胸肉で我々を歓迎してくれた。
「あぁ、モンゴルがあなたの国を攻めたときのことですか‥‥七百年以上もまえのはなしです」
 エンフさんが歴史の先生だということから、最初の話題が元寇になった。あの時は失敗しました、とエンフさんは見てきたように笑った。
「日本海のことを川だと思っていたのです。海というものを知りませんでした。モンゴル人は水に潜ることを大変恐れます。きっと、海をはじめて見て怖くなったのでしょう」
 アリヒと呼ばれるこの国のウオッカで乾杯した。私は馬乳酒でそうすると思っていた。
「ソ連は、いいことも悪いことも持ってきました。その一つがこれです」
 オルグェイ! そう言ってエンフさんは天地に向かって蒸留酒の滴を指ではじき、神に感謝した。
「チンギスハーンは、なぜあんなにも征服の旅をつづけたのでしょうか」
「モンゴルの発達のためだと思います」
 発達とは何ですか、と私が尋ねると、エンフさんはすこし考えてから笑って答えた。
「アリヒを飲むことではないですか?」
 奥さんが、大皿にもうもうと湯気をたてる羊肉をもってきた。上の子どもたちは、乳茶とチーズと菓子を肉の周りに並べる。さぁ、食べましょう。エンフさんが言い、我々はナイフを持ち旺盛な食欲で肉を剥がし口に運んだ。飲み、食べ、笑い、そして互いの国を語り、歌を唄いあった。身を切るような季節のなかで、ストーブは赤々と燃え、ろうそくの灯に皆の影がフェルトのうえで踊っている。子羊はまどろみはじめ、幼い子どもたちは私にはわからない言葉で遊んでいる。
 幕舎の外は、声のするほど荒ぶる星空だった。


「食べないのか?」
 ガナが、カップのなかへ紅茶の糸をたらしながら言った。見ると、とうに朝食