信じてやらなければ、とにかくできない。その辺は本当に面白いもので何故なのかはよく分からない
地獄のように熱く
悪魔のように黒く
天使のように優しく
そして 恋のように甘い
それがコーヒーだ
 ポーの小説に「早すぎた埋葬」という作品がある。読んだのは大分前で内容はもう覚えてないのだが、確か冒頭に書かれていた、棺の中で死人が蘇生するくだりだけは忘れられない。土葬した死体を何かの理由で掘り起こしてみると、幾つかの棺の蓋には中でもがき苦しんだ必死の爪痕があるんだそうだ。ホントだとするとこんな恐ろしい話はない。およそ考えうるかぎり、この世でこれほど残酷な苦痛というのはないのでないかと個人的には思う。というのも実は、人並みはずれて閉所恐怖症で暗所恐怖症なのだ、特に閉所のほう。だからこういうのに最高に弱い。もし自分が地中深く埋められた真っ暗で狭い棺桶のなかで目覚めてしまったらと考えると…オ、オ、オーッツ! 想像するだに恐ろしい、間違いなく発狂するだろう。イヤ、発狂できればまだラッキーだ、発狂も気を失うこともできずに正気でそのままの状態が続くとしたら…オ、オ、オーっツ! 地獄ダーっ! 地獄以上ダーッ! よく映画なんかで、人が縛られて車のトランクに入れられるという場面にお目にかかるけど、もうあれだけでダメ、まちがいなく発狂するね。
 体を縛ったり狭いところへ閉じ込めたり、要するに体の自由な動きを奪うという行為そのものは、酸素があって度を越して長時間のものでないかぎり人体そのものへのダメージはそれほどない。だけど人間は考える、想像する動物だから意識や精神へのダメージというものがある。オレの場合、宇宙の無限ということを考えてもオ、オ、オーッツ!ってなるから、どうやら置かれている状態の時間性と関係があるらしい。果てがないというのはオレにとって最大の恐怖だ。無限は絶望なのである。まぁ、この話は別にやるとして、いずれにしろ土の中の狭い、絶望以外なにもない棺桶の中で狂い死にするくらいなら、火あぶりやギロチンや釜ゆでのほうがマシということである。
 人間は生まれてくるときは親とか境遇とか、なんにも自分では選択することができないけれど、どうだろう、死ぬシチュエーションというのは運が手伝えばある程度選べるのではないだろうか。まぁ、たいていは病院でガンとか心臓疾患とかでくたばるんだろうけど、オレとしては、そういうわけで体の自由を奪われた状態での死だけはなんとしても避けたい、例えば地震がきて倒壊した建物の下敷きになるとか、狭い坑道を歩腹前進していたら落盤してきて生き埋めになるなんていうの。出会い頭に車とぶつかって即死、なんてのは楽だしけっこうありそうだけど、これは自分では選べない。最近は、アルツハイマーがいいかななんて思ってる、イイと思うよあれは、本人はわかんないんだから周りがタイヘンなだけで。で、理想をいわせてもらえば何といっても腹上死だ。若い女のうえでワッセ、ワッセとやってて一番気持ちいいとき心臓が止まってポックリいく。最高である。で、ここが大事なんだがつまり、当然、断固として死んだあと棺桶に入れられたくない。土葬なんて言語道断、火葬もガンジス川のほとりでやる以外は不可。モンゴルの草原にただほっぽっといてくれればそれが一番いいんだけど、鳥葬でもかまわない。
 というわけで、死期を悟ったオレは有り金ぜんぶもってインドかチベットあたりへ出かけ、毎日酒池肉林をつづけたあげく、ある朝ポックリいってそのまま狼やハゲタカに食われてしまうのであった。メデタシ、メデタシ。
 
モーツァルトについて何を語ることがありましょう?
ただ目を閉じ 耳を傾け 
そしてあなたの口をふさぎなさい
 毎度おなじみの地デジが金融不況のあおりで4,5年スタートを伸ばすらしい。朗報である(アメリカは今年からだとナショジオにでていたが)。どうすっかなぁ、地デジ。現在思案中。オレとしてはこれを機会にテレビ見るのやめてラジオに切り替えようかとも考えている。だってつまんないんだもん、テレビ、っていうか民放。TBSの「チューボーですよ」と「情熱大陸」以外はまったく見ていない。
 NHKは素晴らしい。べつに受信料払ってるからってカタをもつわけじゃないけど、そもそもが視聴率を度外視して作ってるから、作り手の意欲とか熱意みたいなものが素直に作品にされてて上質である。もちろん公共放送としての制約はあるんだろうけど、取材は丹念だし演出意図にも余計な装飾を一切排除する品位と揺るぎない志が感じられる。特にサイエンスとドキュメントは秀逸。最新の情報と技術を駆使し、芸術性も含めてその映像は息をのむほどに美しい。まさにテレビ鑑賞の醍醐味といえる。一般教養としても最高。まぁ、金と時間がふんだんにあるからできることなんで、当たり前といえば当たり前だ。なんてったって国民という大スポンサーがついてるからね、国営放送ではないけれどオレなんか受信料のこと一種の税金と思ってるもん。いつだったか、時の会長が「金はいくらかかってもかまわん、イイものをつくれ」って号令かけてたけど、はっきりいって正解でしょ。やっぱりほんとうに洗練されたイイものってのは金と時間をかけなきゃできないわな。
 で、NHKの場合そういうふうに放送されてる作品そのものが、その存在価値のすべてだから、金払ってるのにくだらないものつくったら見なきゃいいんだし、そしたら受信料の支払いを拒否することもできる。このへんは公平だ。でも民放は番組の内容がどんなものであろうと多数の視聴者を獲得して、結果、スポンサーの商品が売れれば用は足りるのでどうしても大衆受けするものになってしまう。大衆とは、NHKは有料だけど民放はタダだと勘違いしてるようなアンポンタンであり、CMの口車に乗って金もないくせに商品をジャカすか買うようなおめでたい人たちのことである。金もってるヤツらはCMの商品買わないよ。貧乏人が買うんだから。貧乏人がマンマとコマーシャリズムに乗っかっちゃって、金持ちはサイフのヒモを固くしたままだから景気は良くならないんだし二極間格差は広がる一方なわけだ。
 だから民放の番組、オレとしてはちょっと見るに堪えない。最近ますます酷くて、放送各社横並びにどこもそう。一種の暴力だわな、ファッショである。トヨタのエコカーに用はなく夜も快適の生理用品も買わないオレとしては三十六計を決め込むしかないわけだ。どこへ? とりあえずはNHK。権力の御用放送みたいにいわれたり、何年か前には不祥事があったり、いまもあるんだろうけど、いろいろナンノカンノと言われてはいるが、作品はイイんだから、批判されるということも含めて。作品がよけりゃ見るよ、金も払うよオレは。
 オレにとってテレビは必需品である。その登場とともに小学校、中学校をすごし、オレという世界の少なくない部分はテレビがつくってしまった。これからも、おそらく死ぬまで、少なくとも映像という呪縛から逃れることはできないだろう。それにしても地デジ、どうすっかなぁ。地デジでNHKだけ受信するってわけにいかないのかなぁ。
良い問いは、その答えより重要である
 スマップの草薙クンがテレビで謝っている。なんでも、酔っ払って公園で真っ裸になって騒いでいるところを、公然わいせつ罪で警察にしょっ引かれたんだとか。勤め帰り、キオスクの夕刊の見出しもそればっかだった。「草薙逮捕!」「スマップ解散!」「草薙損失1000億」 ナンだこれは!ヤツはなにをやらかしたんだっ、殺人か!強盗か!レイプか!ドラッグか! あぁ、オレはスマップが大好きなのに悲しいことだなぁ、なんて見出しを横目で読んだあと帰宅したらニュースで草薙クンが謝っている。で、凄まじいカメラらのフラッシュを浴びている草薙クンなんだが、一応詫びてはいるものの何かこう、顔の色艶もよくスッキリした表情である。あ〜、気持ち良かった、ってな顔つきにオレには見える。本人もそんなに悪いとは思ってないんじゃないか。大体が、人を傷つけたり物を壊したりとかいうんじゃなさそうだから、普通だったら「スイマセン昨日は。ちょっと飲み過ぎちゃって」「ハハ、オマエなかなかいいものもってるじゃないか」で済むところのものだ。それに芸能人なんて河原乞食だとオレは思ってるから、端っからマザーテレサみたいな倫理や道徳など期待してないし、こんなことくらいで公共の電波を使うことはないんじゃないかと思う。まぁ、今後の仕事に差しさわりが出てくるってんで謝ってるんだろうけど、それにしても、イイなぁ、オレも飲んで裸になってさわぎたいよ。草薙クン、涙も流してる。そんなに頭下げることないぞ 草薙っ!オレはなんとも思ってないぞ!なんだったらこんどスマップ全員でやってみせてくれ!でもって、そんときはオレも交ぜてくれ! 
 日本人にとって、酔って裸になるのは正しい酒の飲み方である。
花の下にて 春死なむ
Monologue
― デューク東郷
思いつきだけで行動するのは
愚か者のすることだ
それを得意気に話すのは
もっと愚か者のすることだのすることだすることだ
品行の悪い人間は芸人になれるが
品性の悪い人間は芸人になれない
願はくは
そのきさらぎの 望月のころ
芸術やら文学なんてものは、心細いもんです
― バーンスタイン
― 高橋陽一郎(数学者)
私自身の体験で言えば、絶対にあると信じ切れなかった時に何かを見つけた覚えはないですね
(09・09・27)
 ロト6がどうやっても当たらないので何か霊感を得ようと思い立ち献血しにいった。きっかけはNHKでやってたボクシングの元世界チャンピオンの鼎談で、つまり、やつらは激しい練習にくわえて激しい減量をするんだけど一か月に十キロとかの、そういう非人間的なムチャクチャなことをしていくとだね、精神がどんどん研ぎ澄まされていって、ついには「オレは世界中でいちばん強いんだ!」ってな神のごとき気分になるんだそうだ。これだっ!とオレはおもったね。オレはかねがねイニシエーションやらカウンターカルチャーで使ってた薬物を経験してみたいと思っていたのだが、まぁ、そこまでする度胸というか、金がない。アルコールやニコチン、風邪薬なんかでも起きぬけのすきっ腹に摂取すればけっこうトリップできるんだけど、やっぱり霊的体験というまでにはほど遠い。そこでだ、なにも薬物を得なくともその逆で、物質としての肉体に物質として流入してくるものを遮断し、物質として排出できるものはとことん排出していけば、肉体が空っぽになって、あとには精神的なものしか残されず、それが凝縮さると、結果「研ぎ澄まされ」ていって煙草と酒でも霊感が得られるんじゃないだろうかというわけなのである。悪くない。イイね「研ぎ澄まされる」って言葉。
 で、川口駅東口交番横の献血センター。前で献血をよびかけるバケツ頭のオヤジはどうみてもキャバクラの客引きにしかみえなかったが、中は綺麗なテーブルと椅子が喫茶店のように設えてあってさすがに清潔。カウンターにいる白衣の女性と某音楽著作権団体の職員のごとき、軟弱と弱腰が服着てるみたいな中年の男性が応対。B4の申込用紙を手渡される。「はじめてですか?」と、端末機で身元を確認しながら白衣の女性。実は、三十年くらいまえに一度献血したことがあるんだけど、もうどこでやったのか場所も覚えてない。「では、二度目のところにマルをしてください。何時間前に食事されました?」自分は晩飯しか喰わない習慣である、と答えた瞬間、シマッタ! と思った。案の定、白衣の女性は二秒間ほど絶句した。「それではこれから献血するのでね、あちらの飲み物を飲みながらテーブルに座ってゆっっくりでいいですから書き込んでください」壁には二台の飲料水の自販機があってその隣に煎餅やら菓子やらがズラーっと並んでいる。ぜんぶタダだ。アセロラのボタンを押してサラダ煎餅と菓子をピックアップ、テーブルに座る。オレの他には青年が一人、饅頭を頬張っている。ナニナニ?「このたびの献血はエイズ検査のためですか?」だ? ちがうよ。金のためだよ。え〜と、「肝臓の〇〇〇に関する検査結果を通知しますか?」いらんわい、そんなもの。「〇〇の△△の結果は通知しますか?」オレはね、血を抜きに来ただけなの。と、片っぱしから「いいえ」をぬりつぶしていく。で、書いた用紙をもってくと、こんどは横にある端末機の前に座らせられて画面の質問に答えていく。過去の病気やらエイズのことやら三年以内に行った外国のことやらセックスのことやら、ケッコウ恥ずかしいことにも答えなければならない。「ヴェトナムのどの辺にいってらしたんですか?」「肺炎に罹ったときはどういうことで入院されたんですか?」「ヨーロッパに行かれたときはイギリスへは入国してませんね?」「四〇〇CCをご希望ですけど体重は五〇キロ以上で大丈夫ですね?」しかし、こんなにめんどくさいもんかなぁ、献血って。まぁ、そうかもしれんわな。確かに日本も世界も三十年まえとは比べものにならないくらいヘンになっちゃってるから。
 で、5分ほど待たされる。カウンターの向こうがわは、歯医者のような散髪屋のようなマッサージ店のような雰囲気の6つのリクライニングシートが気持ちよさそうな明るく清潔な部屋である。そこから看護婦さんみたいな女性がパタパタ出てきてオレの名を呼ぶ。「あのー、食事されてないんですよね? それですと、そのー、こちらの体重で四百CCというのは、そのー…」やっぱりな。オレはカウンターに向きなおり、再訪を告げて献血センターをあとにした。
 気がはやるので来てみたけど、どっちこっち今日は献血するにはベストではない。霊感を得るためには血のほかにも出さねばならぬものがある。それを出した上で献血だ。というんでオレは、その足で西川のマツキヨへいく。カンチョーを買うためである。大きいタイプ二個入り税込みで¥175。安いんだね、カンチョーって。
 カンチョーはやってみるとムズカしかった。二つの点でムツカしい。ひとつは、肛門が簡単にみつからないこと。翌日、さぁ、霊感を得るゾ!って期待に胸ならぬオシリを膨らませるべく、毎日のお通じのあといよいよ容器の先っぽをいれるのだが、これがうまくいかない。ここかな? アレ? こっちかな? ちがうな…ここかしら?…あらら、溶液があふれてきちゃった、やっぱココじゃねぇ、って、全量は入れられなかった。にばん目にムツカしいのは、がまんできないことである。説明書には注入後3分から10分まってからしましょう、ってなことが書いてあってフムフムと頷いたオレだったが、いや〜、ムリ! がまんできないよ。これを10分がまんするだけでそうとう霊感がつきそうだ。
 で、ほとんど溶液のみといっていいほどの雲古ではあったが、出すには出したので再度献血センターへ。「食事はとりましたか?」ハイ、とウソをつく。けど、ちょっと怖くなったのでアセロラを二杯、一気飲みする。きょうはずいぶん大勢いるな。みんな若い。どうして献血なんかしにきてんだろ? こんな若いうちから献血に来るなんてまったくどうかしてるとおもうけど、金目当てでカンチョーまでしてるオレのほうがよっぽどどうかしてるだろう。で、名前をよばれて奥へ。検査用の血を少し採る。「A型ですね」あ、そ。そのあと血圧を測る。上が173で下が73。こんなものはどうでもよろしい。で、シートに横になりいよいよ針を刺したんだけど、思っていたよりイタイ。ナンかイヤな予感がするなぁ。針が刺さってるとこを見たいんだけど怖くてできない。歯を食いしばって目を閉じる。そんなオレに白衣の女性が手にホカロンを握らせ「軽く握ったりひらいたりしてみてください」っていうんだけど、オイ、ホントに信じてていいんだな?いまさらだけど。でもって血はどんどん抜かれていく。「もう半分まできましたよ」って、なんだか本当の病人になったみたいで、頭をのせてあるあたりから癒し系の音楽が流れてくるんだけど霊感どころかかえって、オレはカンチョーまでしてなにかものすごくまちがった良くないことをしているのではないだろうかと罪の意識のごときものを感じるのであった。
 約30分後、身も心も軽くなった、はずのオレは、センターをでるとさっそく飲みにいった。霊感を得るべく、大金を手にすべく……。
 
 この秋、ひとつの試みをした。その結果は、連休が台無しになりロト6はかすりもしなかったというだけを述べるにとどめておく。 

10 逆もまた真?

 
 ソニーのウォークマンをはじめて手にしたのは二十代の前半だったとおもうが、そのときの衝撃はえも言われぬほどスゴかったように記憶している。音がいいのにもビックリしたんだけど(なにしろ部屋にいるときでもウォークマンで音楽聴いてた)、それよりも何よりも聴きたい曲をカセットテープで持ってれば、何処にいても聴きたいときにそれを聴けるという、その事実に驚いたのである(いまではフツーに当たり前でテープさえ要らなくなってるけど)。まさに画期的発明、それまでは、例えば街中を歩いてて夕暮れの絶景に出くわしたとき「あぁ、いまスメタナが聴きたいなぁ」なんてこと思ったとしても、クソ重たいデッキを常時肩から担いでるんでないかぎりそんなことは金輪際できなかった。そして、そんなことやってるヤツなんてゼッタイいなかった。それがウォークマン登場以後可能になったのである。科学って、スバラしいものだなぁ。なんでも、NHKのシルクロードが人気をはくしたとき彼の地を訪れたファンは、こぞってウォークマンをぶらさげてはその耳にイヤホーンをつっこみ、喜多朗の奏でるシルクロードのテーマを聴きながら旅してまわったそうだ。ん〜、わかるねぇ、この気持ち。当時、まだ飛行機に一回しか乗ったことのなかったオレも、サーカスが唄う「アメリカン・フィーリング」の窓のぉ そーとはー スカァーイブルーゥ≠チてフレーズが好きで「いつかゼーッタイ、空の上で聴くんだ!」って決意しまくってたもんな、まだやってないけど。 
 だけどねぇ、いまオレは「どこにいても聴きたいときに聴ける」と言ったけど、それは「いつでも聴ける」というのとはちょっと違う。いまの若い人たちは、外に一人でいる状態の時まずほとんどがウォークマン式の「いつでも聴ける」ケイタイ音楽を聴いているけど、ありゃぁ、どうみたって音楽を聴いてるってな風には見えない。せっかく便利な機械を買ったんだからそれじゃぁ何か聴くか、くらいの薄っぺらさを感じる。外界の音を遮断するためのアイテムだっていうウワサもあるけど、それだったら音楽でなくとも般若心境でもハチの羽根の音でもいいわけだ(因みに、ハチの羽根の音は精神にイイらしい)。まぁ、商品が、目論んでいたコンセプトからはずれてヒットするというのは時々あるし、使い方は本人の勝手でいいんだけど、とにかく見ててカッコ悪い。友達とダベッたあと、じゃぁねぇ、って一人になったとたん、重度の心臓病に罹ってる人がニトログリセリンを探すみたいにしてカバンからイヤホンを引っ張りだしたり、電車に乗り込んでくるや否や、それは法律できまってるから守るのは当たり前ですとでも言わんばかりの流れ作業でもってヘッドホンを頭につけたり、その所作、行動はほとんど条件反射、パブロフの犬である。喉が渇いてもいないのにペットボトルの水を所構わず飲んでるヤツらも同じで、つまり、「〇〇したいときに」という最高の文脈が脱落して「いつでも」という、その実たいして重要ではないフレーズの言いなりになってしまっている。水が欲しい≠ニいう肉体の声を聞かずに小まめに水分をとりましょう≠ニいう情報の奴隷と化したその姿は、なんにも考えてないのが一目瞭然でカッコ悪い、というより、みっともない。水飲むくらい自分で決めらんネェのかよ、ったく。
「いつでもどこでも〇〇できる」ってのはそんなにイイことだろうか?江戸時代、庶民の娯楽だった歌舞伎鑑賞は一日がかりの大イベントだった。何日も前から胸をワクワクさせて、当日は朝早くから弁当作ったり着飾ったりして近所の人たち総出でもって、さぁ、きょうは団十郎を観るぞ! って期待と緊張感のなかワイワイはしゃぎながら遠い劇場まで歩いていく。旅や祭りも同じだけど、それらは異様で幸せな高揚感に包まれた非日常的な場、よく言うところの「ハレ」である。で、「ハレ」にはそのようにコストがかかる。仕事を休んで普段は食べない御馳走を用意し、この日のために着物だって新調する。また、当たり前のはなしだが劇場や旅先、祭りの会場なども非日常性を演出するためにコストがかかっている。互いにコストをかけあって、だから「ハレ」、だから感動が生まれる。しかし「いつでもどこでも」という発想は、そういうハードやソフトにかかる以外の、手間だとかめんどくささ、丁寧さ、大変さなどのような精神的コストをオミットしてしまう。「ハレ」も「ケ」もクソもミソもぜんぶ一緒にしてしまうのである。まぁ、「そのために作ったんだよ」と言われてしまえばそれまでなんだが、だけどたとえば、ホームシアターっての? いっくら家にいながら好きなときに映画が見れるったって、パジャマ着てソファーに寝っ転がったまま「ディアハンター」見たって面白くないと思うよ、ボクは。ってか、そんな状態でデ・ニーロ観たくないねオレは。やっぱり映画はさ、ピアで時間しらべて、よそ行きの服着て、有楽町までの切符買って、これから見る評判の映画のことやそのほかのことなどアレコレ想像しながら、入る前にあそこの喫茶店でコーヒーと軽くサンドイッチを腹に入れておこう、でもって見終わったらあそこの飲み屋でビールとスパゲッティーのナポリタンを食べよう、なんてことも考えて、で、実際はじまってみたら映画がゼンゼンつまんなかったり、前のヤツのデカイ頭がジャマだったり、あろうことか隣りのオヤジがイビキかいて寝ててコノヤロー!どうしてくれよう、ってこの緊急事態に対応すべく映画そっちのけで頭んなかでドラマつくったり、そういうのをぜんぶひっくるめてのもんだと思うよ、映画鑑賞ってのは。って、ちょっときょうの主旨からはずれてるか。
 ウォークマンは、むしろアメリカで絶大にうけたという。歩きながらでも好きな音楽が聴ける? 最高じゃないか! 合理主義が目鼻をつけてるような、一+一をかならず二にするような彼らは、決して動機を忘れないし目的を曖昧にしない。歩きながらほんとうに音を楽しむ。映画「プリティーウーマン」や「ターミネーター」、「レオン」のなかで登場人物たちは―作り物だからデフォルメされているにしても―バスタブにつかりながら、料理をしながら本気でウォークマンを聴いている。また、それとは表裏を一体にして、バブル景気のころの日本人の優越感をくすぐった、仏人ポール・ボネの一連の著作のなかにこんな一節がある(もう忘れたので意約)。「日本の車には色んなものが付いている……わたしはディーラーにカーステレオのオプションをはずして、そのぶん値引きしてほしいといった。わたしには運転をしながら音楽を聴く趣味はない。音楽なら自分の部屋で聴く」。彼ら欧米人に共通してるのは、「〇〇〇したい」という強烈な目的意識のまえでは、どんなに優れた機械であってもそれは単なる道具にすぎないという概念である。日本の若者はどうか。漫然とイヤホンやヘッドホンを耳に当てるその姿は、みながやってるから、流行りだからというスタイル自体、ツールそのものが目的となってしまっていることは明白である。わたしはなにも、だから欧米人が優秀で日本人がダメなんだなどと言う気はない……などと軟弱なセリフを言う気はオレはさらさらない。テメェら、ちったぁ白人どもを見習え! んで、ああいうふうにできないんならウォークマンなんか聴くな! ったく、目ざわりでしょうがねぇや。そういえばウォークマンのCMで、ヘッドホンした猿が目を閉じてシミジミ音楽聴いてるってのがあったけど、あれは傑作だった。ジュリア・ロバーツみたいに風呂つかりながらウォークマンではしゃぐなんてバカなまねは恥ずかしくてできませんってんなら、せめて、あの猿みたいに一人静かにシミジミとしてみたらどうなんだい、日本人だったら、えっ?
 二年前プラハへ行った。スメタナの「モルダウ」を聴きたくて、その一曲だけを聴きたくて、それだけのためにプラハへ行った。あの時の感動はいまも忘れない。十二月の冷たい風が吹きつけるオールド・スクウェア。クリスマスモードに沸き立つ人並みをかき分け辿りついた小さな教会。吐く息の白いなか硬い椅子に腰を下ろしやがて演奏ははじまる。あぁ、これだ…。じっと目を閉じたその瞼の裏には、いつしか夕日が浮かんでいた。インターネットを持ち出すまでもなく、科学技術の進展は今後ますます世界中の時間と場所の境界をはずしていく。いいだろう。ただし、それが美しければ、だ。
 オレはこれからもたくさんの夕日をみることだろう。そして傍らにステキな科学技術の結晶があれば、それは、あの日の感動を容易に望むままに再現してくれるだろう。だから、ウォークマンは画期的な、すばらしい機械なのである。
― ゴルゴ
人間は同時に二つのアクションをとることはできない
(09・07・15)

8 飾りじゃないのよ涙は

 知り合いのことし大学四年になる娘さんが理科系の学生で、いまサイエンスカフェなるものを主催しようと懸命なんだそうだ。よいことである。科学はメチャメチャ面白い。世間では若者の理科離れが喧伝されて久しいけど、オレのまわりにもサイエンスの話ができるヤツはゼンゼンいない。どうしてなんだろ? サミしいことだなぁ。例えばさ、飛行機の機内食たべるときいっつも思うんだけど、地上の上空一万メートルのとこで座ってメシ喰うって、ナンかバカバカしいほどに面白くない? って、ちょっとちがうか。でもまぁ、周りで無理強いしてもしょうがない、好き嫌いがあるからな。これは資質の問題だ。
 実はこうみえてオレは理科系なのである。科学に対する期待と憧れは少なくとも文学よりははるかに強い。中学のときアインシュタイン・ロマンスみたいなのにとりつかれて以来テストの成績も理科だけは常に学年で5番以内だったように記憶している。ただね、数学ができなかったのよ。数学、好きだったんだけどできなかった。高校のときも「数学ってきれいだなぁ」って黒板見ながら惚れ惚れしてたんだけど、数Vなんかチンプンカンプンもいいとこで赤点くらってた。まぁ、そんなことはいいとして、それにしてもサイエンスカフェか…イイな。オレがやりたかったよ。実際、このサイトの実験段階では(いまも実験段階だけど)サイエンスのページがあって似たようなアイデアをもっていた。けど、もうそういうのがあるんだったらいいか、やんなくて。
 科学の進歩はめざましい。めざましすぎる。それはもう宇宙の果てから原子の中の中、自然や歴史や経済、生命にいたるまでとどまるところをしらない。もちろん学問だけでなく政治だって家庭の台所の隅っこのほうだって、それが実在するための根拠として科学の及んでいないところはない。まさに向かうところ敵なしといった感じで、事実上、金とならんで我々の毎日の生活を支配しているといえる(ちなみに、金がなくても科学は存在するが、科学がなくては金は存在しない。それは科学が「知りたい」という欲望と「考える」という能力から敷衍されるところの、Knowledge=知識だからである)。誰かが言ってたけどこうなるともはや科学は思想そのものといってよく、実際、最先端の量子論なんかは宗教と見分けがつかないくらいでほとんど華厳経と接触しそうだし、五次元、六次元世界―まぁ、いってみれば「あの世」だわな―の実用化とでもいおうか、パラレル・ワールド風コンピユータも開発中なんだそうだ。
 で、進歩は同時に破壊行為でもあるから、おかげで神様が社会の隅っこに追いやられたり、イイ感じの伝統やしきたりが消滅したりなんかする。オレは神が殺されようがどうしようが知ったっこっちゃないけど、サミシいことではある(だけど、アイツはいるよ。まちがいない。だいたい人間ごときに殺せるもんじゃないって、アイツは)。まぁ神はともかく、ゴキブリを始末してくれるのはありがたいし、便利になったことは確かなわけで文句をいうつもりはない。だけど世の常でもって、人間のすることには必ずしっぺ返しがある。もうそこまで来てるって雰囲気もあるけど、それを解決するのはお祈りじゃなくてやっぱり科学自身であるということも確かなことだ。まさに無人の原野を一人いく孤独な巨人のごとき姿だが、しかたない。いずれもう引き返すことはできない。なンかちょっとコワい。でも宇宙の果てや原子核の中がどうなってるのか知りたい。でもやっぱりコワい。
 で、理科系のオレがそういう、科学に対する一抹の不安を感じるとしたら、それは科学そのものにではなく科学する人間に向けてのもんだと思う。だいじょうぶかね、アイツら?。お茶の水博士ならまだいいけどジキル博士やフランケンシュタイン博士になったりしねぇだろうな。なにしろ数学赤点の身としては、まな板の上の鯉状態なわけでヤツらに何をやらかされてもわけがわからない。だからね、さっきの若者の理科離れの話だけど、日本の科学技術の将来が危ぶまれる、なんてクダラない理由でもって科学者を育成してほしくないんだよな。つまり、これはあらゆる分野にいえることだけど、周りの大人が子供にたいして、馬を水飲み場に無理やり引っ張ってって水飲ませるみたいな真似だけはまちがってもしてほしくないのよ。喉が渇きゃあ、ほっといたって自分でナンか探して飲むんだから、人間ってのは。イチローが成功したのはパパの英才教育があったからじゃないよ。環境や持って生まれた資質にくわえた以上に、イチローが野球が好きだったからだよ。それをアホな大人が子供を無視して勘違いや見当違いをすると世にミスキャストが溢れることになる。二世の政治家なんてどうなんだろうね、本当はやりたくないやつってケッコウいるんじゃないかな。数多あるミスキャストは、まぁ政治家はちょっと困るにしても、野球くらいならまだ害はないが、科学はそうはいかない。ときに凶器となる。井上ひさしの小説のセリフじゃないが、凶器としての科学は、当の科学者自身を含めて弱い者を狙い撃ちしてくる。そして、それは必ず命取りとなる。
 涙は大部分の水と少量のアンモニア、塩でできている。科学はそれを分析して容易に同じものを試験管のなかに作って見せることができる。しかし、涙とまったく同じ成分でできているからといって、試験管のなかの液体を涙とはいわない。涙は、悲しみや喜びを内に秘めておくことができないときに瞳から溢れ落ちる人間の心である。それを知るべきであることを、科学をする者は肝に銘じなければならない。
― 米国、某理論物理学者
マリアの処女受胎を信じるかって?
もちろんさ、それを信じなかったらクリスチャンじゃないからね
 首都圏の駅ホームの喫煙コーナーが撤去されてから2か月になる。最初、…お煙草をお吸いになるお客様には大変御不便をおかけいたしますが、なにとぞ御理解、御協力をお願いいたします…≠ニいうバカっ丁寧な、そして不必要に繰り返すアナウンスに反発して「ウルサイよっ!だいたい、どうゴリカイしろってんだっ、理由を言え、理由を!ゴキョウリョク?バカ言ってんじゃないっ、そもそも吸わないでくれといってるものをどうしてキオスクで売ってるんだ?金とって儲けるけど商品は使わせないってのはどう考えてもヘンだろ!それに人の迷惑になるってんなら煙草がダメでなんで酒はいいんだ!世間でおきてる犯罪や事故の多くは飲酒が原因だろっ。煙草吸ってつい、カっとなるか?気持ちが大きくなって暴力ふるうか?吸った勢いでもってイケイケになってイタズラするか?逆だろ。酒はそういう悪さを助長するけど、煙草は心を鎮めてくれるんだぞ。酒のほうが社会的にはずーと悪いじゃないか!。よ〜し、オレはなにがなんでも吸ってやるからな」と、固く決意したのだが、案外、駅のホームで煙草が吸えないってのはイイかもしれない。
 もとより煙草は嗜好品であるが、ヘビーな喫煙中毒者でもなければ、味わいを楽しむというより惰性や時の合間をつぶすために吸ってることの方が多い。オレの場合、あぁ、タバコうまいなぁ、と思えるのは一箱20本のうち2、3本だな。朝、起きぬけのときと何時間も仕事の手が離せなかったときの一本である。あと、ヨーロッパにいくんで飛行機に10時間以上缶詰めにされたあと異国の空港で解放されてから火を点ける一本、なんてのも格別だ。それは要するに、煙草を吸えない状態、というのが睡眠や状況、ルールでもって強制され、結果、煙草に対して肉体が飢餓状態になるからにほかならない。であればだねぇ、そういう状況を自ら演出すれば毎日美味しいタバコが吸えるというものだが、意思が弱くってなかなか簡単にはできない。
 で、今回、まぁ、個人的には理不尽だなぁとはおもうものの、JRがそういう強制禁煙状態を用意してしまったというわけだ。おかげで以前よりウマイ煙草が増えた…かというと、そうでもないな。本数だって減ってないしほとんど影響はないみたいだ。では、もっと強制禁煙状態を演出しなくては、ってんで、どうだろう、いっそ値段の方も、欧州なみに一箱600円とか700円とか高くしちゃえば。ウマいだろうなぁ、一箱1000円のキャスターマイルド。もう、高いからね、安直には吸えない。吸いたいのをこう、ガマンして、ガマンしてその挙句にパッケージの封を切る。そして一本一本、矯めつ眇めつ、手触りを楽しみ、くんくんと鼻腔をすべらせ、さぁ、いよいよだ、って心して火をつける。こいつぁ、ウマいよ!そうなれば経済的だし健康にもよろしい。
 オレが人生に欲しているのは、そういった陶然とする時間である。もう、いきなりすべての結論を言ってしまうようだが、忘我、陶酔、夢中の時のなかにいつも我が身を置いていたい。そのために煙草を吸う。煙草やコーヒー、酒は、いわば無我の境地を現実化してくれる触媒、道具である。したがって、オレが用があるのは煙草のテイストその他ではなく、ズバリ、我が脳を痺れさせてくれるニコチンである。コーヒーという物品ではなく、それに含まれるカフェインである。アルコールという科学成分である。これは一般的には、毒、と呼ばれるもので、そう、有体にいえばオレは毒でもってトリップしたいのだ。そういう触媒はほかにもあって、音楽やダンスなんかそういうところがあるな。プラハの教会でモーツァルトを聴いたとき、オレの頭は非常だった。セックスはどうなんだろう?貧弱な経験しかないからわからない。ほかにもそういう「時」をもたらしてくれるものがあればなんでも良い。だからドラッグだって全然否定しない。もちろんリスクはある。そんなことは百も承知二百も合点だ。だけど、毒のない人生なんてツマンないんだ、オレは。
 世は益々毒を排除する。人間も有害な人間はどんどん捨ててゆく。そのほうが徴税しやすいからだ。そのうち駅のホームで酒も飲めなくなるかもしれない。美観を損ねるものは根こそぎ禁止され、ピカピカでない商品はジャカスカ捨てられ、家や会社や施設は完全滅菌されてて、ウンコやオシッコ、目ヤニによだれ、唾も汗もフケも爪が黒くなってるのも、そういうのは全部悪者にされ、憂鬱な顔をしてたら「元気をださなきゃダメじゃないか」と周りから四六時中笑顔を強要される。そんなゴミひとつ落ちてない、みんなが笑ってる北朝鮮みたいな国オレはまっぴらだから逃げる。未だ法と秩序によって人間が去勢されてない、ツルツルのプラスチックのようになってないよその国へ逃げ出す。で、国内にいるときは、しょうがないから陰で隠れてこそこそ毒を摂ることにする。実は、隠れて吸う煙草ほどウマいものはないのである。
(09・05・28)

7 毒がなけりゃ人生じゃない 

― タレーラン
(09・04・25)

6 酒は涙か ため息か

5 もっと光を

― 西行
 「歌は世につれ、世は歌につれ」なんていう言葉があるけれど、最近の若者の歌が聴くに堪えないものに感じるのは、ただ単にこちらが歳取ってきたというだけのことであって、世に連れ添う気のない天の邪鬼が理由ではないと思う。死んだ父親なんかもわりと世間の流行とは無関係の人だったけど、ビートルズや天地マリの歌に陶然となっている中学生のオレに「こんな歌のどこがいいんだ?」とのたまっていた。要するに歳とりゃぁ若いヤツらのすることなすことが気に食わなくなるっていうことだわな。別に興味もないしイヤなら聴かなきゃいいだけの話なんだが、繁華街を歩いていたりコンビニなんかにいくとこれを無理やり聴かされることになる。それがもうイヤでイヤで辛抱たまらん。嫌いなんじゃなくて、イヤなのだ。とくにラップ。ラップという音楽じゃないよ、ラップやってる日本の歌手。何だいありゃぁ? 野田秀樹のセリフじゃないが、そこにおまえの何があるんだ、と悪態をつきたくなる。日本人のラップかけてる本屋なんかほとんど殺意をおぼえ全部火つけて燃やしたくなる、ブックオフ!おまえのことだぁっ!!
 まぁ、子どもや若者は社会の鏡であることは承知してるんで、それに「歌は世につれ・・・」なんで諦めてなんとか折り合いをつけていくしかない。だからNHKの歌番組なんかも、現代の若者文化への好奇心という意味合いから、よっぽどカワイイ子が出演している場合にかぎり見るようにしている。それで死んだ親父みたいに「こんな歌のどこがいいんだ?」とつぶやいているのである。
 で、何がこんなにイヤなんだろう? オレは歌の技量とかビジュアルだとかはそれほど意に介さない。たぶん、詩がイヤなんだと思う。いまの若者たちが唄っているのは詩ではない。説明文である。一人でもわからない奴がいると困るとでも言わんばかりに、解説書のように単語を並べまくっている。作った当の本人がそうなのか、一から十まで言葉にしてくれないと夜も眠れないという感じだ。例えば、マキハラ何トカが唄っていた、どの花も世界にたったひとつしかないオンリーワン〜とかいうやつ。もう完全に説明しきってしまってほとんど学校の授業である。歌というより音楽付きの説教だわな。で、まったく同じことを唄ってるのだが次の歌はどうだろう。
  
  咲いた 咲いた チューリップの花が
  なぁらんだ なぁらんだ 赤白黄色
  どの花みても きれいだな

 マキハラ何トカがグダグダ唄っていることのすべてを、この歌はたったこれだけの言葉で言いつくしてしまっている。どの花見てもきれいだな、と作者がポツリと語るとき、ひとつひとつの生命に対する愛おしさが世界となって聴く者の心のなかにワァーっと広がってくるであろう。これが詩というものである。詩は、「あなたが好きだ」ということを相手に伝えるために「あなたなんか嫌いだ」と書いてみせる技である。あるいは、一番伝えたいことを、その縁をなぞるだけにとどめることによって、核心を一層きわだたせる術である。またあるいは、伝えたいことがあるのにどうしていいかわからない、もどかしさである。それをああやって「大丈夫、自分には全部わかっています、心配いりません、答えはこれです」みたいな顔して、何から何まで店に広げちゃったら、身も蓋もないではないか。だいいち、つまんないでしょ。
 まぁ、唄い手がジャニス・ジョプリンみたいな、ほんものの異形だったら「アタイは淋しーんだよーっ!淋しくってどうしようもないんだよーっ!」」って幼稚園児がダダこねてるみたいなことを臆面もなく吠えても、何かこちらもゾクゾクってなるけど、そこらへんにコロがってるような奴が、無いと商品にならないからっていう程度の理由で書いている詩に、詩と称されるものにオレは心動かされるはずがない。そんなだれにでも簡単に作れるもんじゃないと思うよ、詩は。まぁ、そのへんは当の音楽関係者が一番よくわかってるんだろうけど、才能ないやつが安直につくるから、あるいは作らされるから結果、どうしたって、せいぜいが大学生の日記ていどのものしかできないわけだ。なかには、何をトチ狂ったのか、ダライラマのように人間や世界を朗々と語っちゃたりするものまである。フザケルなと言いたい、笑わせるんじゃないと頭突きをくれてやりたい。拓郎のいまだ人生を語らず≠地で行ってる身としてはコイツら全員ス巻きにして石で重しをして大川にしずめてやりたくなる。以前は作詞家というプロがいて、ユーザーの心をキャッチしようと割かし必死だったそうで、事実、そういう歌をカラオケなんかで唄うと胸にジーンとくるものだ。いまもう、いないのかなぁ、プロの作詞家、作曲家。(ここまで書いたあとTBSをみてたら、偶然にも松本隆をやっていた。まさに我が意を得たり、って逆か)
 歌について語りだすときりがないのでもうやめる。いずれにしろ歌謡曲の新譜というのは音楽が商売として成立している限り若者のものなのだ、サミシイことだなぁ。歌をわすれたカナリアは悲しいだろうけど、歌を探してるカナリアは、そりゃぁ淋しいものである。
                                                                                                                      (09・03・15)   
 胸毛に一本、白髪が生えてきて軽いショックを受けている。
「うわぁ、こんなとこにも生えんのかよ」って実際声にしちゃうくらいに意外、予想外。頭のほうは三十代から出はじめてもうずいぶんな量があるけど、毎日鏡を見るせいもあってか、ため息は出るものの驚きはしなくなった。だけど何年か前にパンツをおろしたとき、陰毛にそれを発見したときはやっぱりショックだったなぁ、頭以外でそれもいきなりだったからなぁ。人生は有限であるのだな、どうしても。と風呂につかりながら妙にしんみりしてしまったことを覚えている。
 陰毛のつぎはアゴ髭だった。こちらは悪い感じじゃないな。ある日、鏡のなかのモミアゲの下あたりに銀色に光るものを見つけてドキッとはしたものの、顔の位置など変えながらしばし眺め続けるうち、なんかジャン・ギャバンみたいでイクねぇか? と思いなおせるのであった。
 アゴ髭とほぼ同時に鼻毛のほうにもあらわれた。オレはかなり前から病原菌の侵入を防ぐ、いわば防波堤として鼻毛を重視しており、だから抜かずにハサミの先端を使って切ることにしている。でも鼻の穴から2ミリほどでている白いそいつを見つけたときは問答無用で抜いた。それ以後も抜き続けそれがよくなかったのか、現在、鼻毛の白髪は、黒対白の割合でいうと3対7くらいの比率で、つまりもうほとんど白髪だらけである、周りから見えないからイイけど。だからいまは抜いてない。
 で、こんどは胸毛だ。黒いのに混じって一本だけ、なにかジャマ者がはじき出されたという感じで生えている。見るからに元気がなくスピロヘータの尻尾のような弱々しいウェーブである。白髪はある程度量がまとまってれば見栄えはそれほど悪くない。こういうふうに、大勢のなかにポツンとあらわれることがよくないのである。どうしたって、月日は百代の過客にしてとか、ゆく川の流れは絶えずしてとか、盛者必衰の理をあらわすとかの諸行無常を考えてしみじみとしてしまうではないか。いっぺんにバンっ、と司馬遼太郎みたいにまっ白になれればいいんだけど、それはやはり生を受けたものの原罪として、真綿で首をしめるようにジワジワジワとあらわれるものなのである、カナシイことだなぁ。
 胸毛の次はどこだろうか? まだ白くに犯されてないところはといえば、睫毛だろ、眉毛、口髭、脇毛、すね毛、手足の甲とか指とかに生えてる毛、あと見えないけど背中の毛か。へそ毛もあるな。口髭は時間の問題だろうな。でもって生えても別にかまわない。睫毛は案外カッコイイかも。目をパチパチしたり伏せたりした時など、当たる光の塩梅によってはそこが微妙に銀色に輝くのだ。イイかもしれない。シルバーバックもいいなぁ。脇毛はどうでもよろしい、何色だろうと存在そのものが美しくない。脛毛もどっちかっていうとどうでもいいんだけど、記憶にある老人たちの足に白髪はなかった、つまり白くなる前になくなっちゃうんじゃないかな。眉毛は微妙だ。ヘンな風になってもらいたくないな、イヤだからって剃っちゃうわけにいかないからね。それにここは人格やキャラと密接な相関関係があるようにおもわれる。そのひとのイメージを決定してしまうといってもいい。村山元総理の枯れて飄々とした感じ、浪越徳次郎のイイ歳してバカ丸出しな感じ、三島なんか生きてたらどうだったろう、やっぱり弱っちいくせにそこだけ剛々とさせてただろうか。オレはね、ブルーがかったアッシュっぽいやつがいいな、それもたれさがってないやつ。
 まぁ、なんにしろ、これから先白くなったり細くなったり無くなったりしていくわけだ。せいぜいチャカしながら、それでも醜くならないようにと神様にお願いしていくことにしよう。こればっかりはわかんねぇからな。
― 「レオン」
「大人になっても人生って辛い?」
「いつだって辛いさ、人生は」
 去年買ったクラプトンのDVDが良くって時間があればかけている。まぁ、カッコイイったらありゃしない。個人的な波長はバッチリ。クラプトン、ギターが好きで好きでしかたないんだろうな。チョーキングのときの顔なんかマスターベーションしてる顔だもんな。ちがうな、女の挿入されたときの顔か。口が左に曲がってる。だいたい、顔が左に曲がってるヤツは感性が女性的でアーティストに多い。ああやってギターを自由自在に操れたら気持ちイイんだろうな。オレなんか途中で飽きちゃうけど。
 こういう、道具というか「物」に対する働きかけを見てると、やっぱりコーカソイド、特にゲルマン系のヤツらにはかなわないという気がしてくる。ヤツらの「物」に対する探求心というかそのしつこさ。ゲットするまで死んでたまるか、とでも言わんばかりで、そのエネルギーたるや「おまえら、ちがうサルだろ」とでもいいたくなるほどである(コーカソイドはネアンデルタール人との混血だとおもっている)。所有欲も含めて、ま、物質民族だわな。やっぱり「寒い」というのがパッションの源なんだろう。
 その時の地球的温度環境にもよるが、毛のない我々人間は、原則、裸でいられる所ででしか生きることはできない。ここ数万年でいえば、南北両回帰線の内側であれば、動植物がふんだんにあってそれほど生きていくのに頭を悩ませる必要はなかったろう。ところが、「寒い」場所に食住を求めた人間は(その理由の考察は別の機会に譲る)、絶えまない考察と探求の必要性に迫られたことだろう。次々と手を打たないと、じっとしてたら凍え死んじゃうからネ。でまたイヌイットなんかとちがって風土的にそれに見合う材料もあったし。で、常にその材料、つまり自然に対する働きかけ、というと聞こえはいいが、要は破壊と創造を絶やさなかったわけだ。しょっちゅう頭を使って壊したり組み立てたりしてるもんだから、畢竟、そこに合理性、理論が発生する。それがまた破壊と創造を加速させる。ある意味、余裕がねぇよな、って負け惜しみか。
 だからというわけでもないのだがクラプトン、ダンスはヘタそうだ。ナンか動きが直線的で柔らかさがない、オレはこいうの大好きだが。運動神経鈍いのかな、ぶきっちょそうである。これに比べると、このDVDはハイドパークのライブなんだが(韓国版だから所々英訳が間違ってる)バックコーラスにアフリカ系の女性が一人いて、彼女の体のリズム感のイイこと。よく彼らに向かって「身体能力の高さ」ということがいわれるが、彼らは凝った道具を作る必然性にそれほどさらされてこなかったから、パッションを発現させるのに体を用いたのだろう。いってみれば体が道具なのである。ま、ダンスはアフリカ系にまかせて、クラプトンはギターで踊り、泣けばイイということだ。
 で、オレとしては宇宙ロケットつくったりコンピュータつくったりするヤツらもスゴイし、11拍子で演奏するヤツもドリブルで9人抜くヤツもスゴイと思うが肝心の日本人はどうなんだろう、ただ見て真似るだけか。しょうがねぇな、こんだけ住みやすい国だと。
― リチャード・ベルマン 
(09・1・17)

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(09・08・16)

9 いつでもどこでもだれとでも

13

― 柳家小さん
(09・04・03)
― アインシュタイン

4 それを言っちゃぁ おしまいよ

(09・02・13)

3 老いを止めないで

(09・02・03)
― 吉本隆明

2 いろいろ悪くは言われるけれど

1 ダンスが上手く踊れない