年が新たまった。三が日、部屋に暖房がないので(冷房もないけど)起きてる時間を本屋とインターネットカフェと酒場で過ごそうと駅前まで出向いていったのだが、外人しかいない。特に中国人。
 我が住む街の飲食店エリアはとっくにヤツらに占領されてるのだが、チャイニーズ・ニューイヤーは来月なものだから、正統な日本人がおコタにはいって背中丸めて酒呑みながらテレビを見ている正月の駅前はこういうことになる。広東語しか聞こえてこない。いつも以上に声がデカい。態度もデカイ。「ここはどこ?」とおもわずつぶやきたくなるくらいのものだ。そのうち旧暦の正月にはバクチクをパンパン鳴らすようになるかもしれない。もちろん、国際派のオレとしては望むところで、そうなったらぜひ一緒にバクチクに火をつけ餃子を喰いながら紹興酒を飲み老人からお年玉をもらうつもりだ。いずれにしろ今年も中国の勢いは続くということである(もうGDPで日本を抜いたのかな?)。
 中国だけではない。インドもロシアも朝鮮半島も東南アジアも、それからアフリカも南米もモンゴルだって、つまり、アメリカと日本、西ヨーロッパ以外の国はみな金持ち目指してイケイケムードなのである。それはそれでイイんだけど、中国、ロシアときたら、こっちの土俵にあがってから日が浅いってのに、ミョーに威張ってて、それは我が駅前どころの話ではない。まぁ、軍や党が牛耳っている資本主義だからそうなるのかもしれないけど、幕末の頃から長い時間かけて欧米のスタイルをこなしてようやく金持ちになった身としては、まったく迷惑な話だ。オレは資本主義にも民主主義にも懐疑的で選挙の投票も拒否してるけど、さすがに尖閣問題とメドべージェフの国後島視察にはムッとした。オレがムッとするくらいだ。なのにいったい右翼はなにをしてるのかなぁ。こらっ、右翼!、ちゃんと仕事してるのか!、三島が化けてでるぞ!
 そういうわけで、去年はNHKなんかでもそういう外国の台頭に対して日本はどうあるべきか、なんていうツマラナイ番組ばかりで、アホウやトンマの顔がいやでも目に飛び込んできた。経済界では、世界へ打って出るという小学校の班会議の結果みたいなのに右へならえで、マスコミも外国進出して成功した企業なんかを盛んに取り上げてた。資本主義といえば物を作って売るという発想しかない。
 ちがうんじゃないか。たとえば、まがりなりにも経済大国なのに中国やロシアになめらてる日本と、貧乏だけど周りをビビらせることのできる北朝鮮と、まったくムチャクチャな比較だけど、これからの日本人がイイ人生を送れるヒントがこのへんにあるような気がしてならない。
 そこでだ。ここはひとつ、鎖国してみてはどうだろう。すべての国との通商を取り止めるのである。取り止めて、全員で第一次産業をもう一度一からやり直すのである。早い話が自給自足を目指す。いったん、外向きの競争原理を捨て、内向きの新しい原理を模索する。
 そうするとどうなるか。製造業の会社はほとんど潰れるだろうなぁ。というより石油を輸入しないんだから企業の全部が潰れる。生活も潰れる。農林水産の現場で働く人以外は喰えなくなる。目も眩むような借金は返せなくなる。近場の国はガンガン侵略してくる。つまり、国は滅びる。ナンかスゴイことになってきたが、どうせ企業の大部分は赤字なんだし、DVだの幼児虐待だの自殺者が三万人だのって生活はとっくにおかしくなっちゃってるし、頭の上を爆弾積んだロケットが通っても領海内で自国の船が外国船に体当たりされてもナンにもできないうえ普天間やらナニやらってメンドくさい問題もあるし、無い袖は振れないし、食い物の安全は外国頼みだし。もうコレ、事実上、日本ていう国は滅んじゃってるでしょ。鎖国しよう。鎖国して最初からやりなおそう。
 要は、国は滅んでも日本人が滅びなければイイのである。テレビやゲームや車はもちろん、クーラーやストーブがなくたって死にゃあしない(オレをみろ)。やはり最重要問題は、喰う、ということだろう。メタファーではなく事実として食えれば、少なくとも人間は滅びない。で、鎖国して食っていけるのかというと、案外できるのではないか。確かに、食物の自給率は40%だけど、みんな食い物をジャカスカ捨ててるではないか(ある統計によると買ってきた食糧の35%を捨ててるそうである)。それに食い物を粗末にするヤツにかぎってダイエットなんかしてる。こういう連中には鎖国したから食えなくなったとは言わせない。
 コメは減反してるくらいだから、ある。水もある(有難いことだ)。塩、それから卵も自前で調達できる。大根や海藻なんかもそうだ。それだけあったら充分だろう。これから人口もどんどん減っていくことだし、それに第一次産業を見直すために鎖国するんだから、年中腹を空かせることにはなるかもしれないが、餓死者が累々なんてことにはならないはずだ。そりゃあ楽じゃないよ。当分の間、豆腐と納豆は盆と正月にしか喰えなくなるだろうし、牛肉なんか誕生日だけ。でもそのぶん、生ゴミはゼロで空気はキレイで山も川も海も動物も蘇って、つまり、人間は美しくなるとおもうよ。
 ただ、せっかくここまで汗水たらして築き上げた資本主義の成果なんだから、そのままにしておきたいものもある。最先端の医療、科学技術なんか。そこで必要最小限の防衛の問題もあるし、アメリカにだけは門戸を開こう。無人島を一つ譲って、そこに核配備を含めた軍事的自由を認めるかわり、石油を少し分けてもらう。で、それは全部科学技術に使うのだが、ここが肝心なところで、鎖国はあくまで通商制限に留め、人や情報の諸外国との往来は従来のままにしておく、ということである。物を作って売るためではなく、純粋に知的探求のためだけに人と技術と情報の諸外国との交流は存続させる。これなら旅もできるナ。外人はナンていうかわからないが、自給自足できて間接的核保有国であれば、まぁ、文句はいわないだろう。そして、鎖国して半世紀も過ぎた頃には、国際競争に疲れ果てた中国とロシアが、超最先端の技術と情報を売ってくれと頭を下げにくるだろう。そのときは目の玉が飛び出るほどフッかけてやればいい。ワハハハ、勝った。
 と、ここまで書いて推敲しようとおもったら、年明けの菅総理の施政方針演説があった。読売夕刊の一面トップには三段ぶち抜きの見出しでこうでていた。
 ―「平成の開国」へ強い決意 ―
 笑ってしまった。 
                                                         11・1・27

3 夢の中へ

 今年は冷夏かな? とクーラーを持ってないオレとしては期待に胸の膨らむ日も七月にあったが、やっぱりアマくなかった。アスファルトと排熱のせいで、ここ十五、六年くらいの東京の夏は、連日最高気温が三十五度を超えるのが普通になってきた。オレが子供のころは上がっても三十三度くらいだったとおもう。熱中症対策、なんて言葉を耳にするたびに、だったら、とっととクーラーと車の数を減らしゃあイイじゃねぇかと半畳をいれたくなるが、どんな対策をとったとしてもマッチポンプであることにかわりはない。いっそもう、使う漢字も「暑中見舞」から「熱中見舞」に変えた方がイイんじゃないか。ついでに「夕立」も「スコール」と呼び変えるべきだろう。頻度といい、凶暴ともいえる降り方といい、あれはどうみても「夕立」という風情はない。まぁ、温暖化のせいで地球の熱帯域の北限は確実に上昇しているということだ。
 夏は暑いだけの季節ではない。痒い季節でもある。虫さされや汗疹など、発汗が間接的に痒みを誘発する。子供の頃はあっちこっちに原っぱがあって雑草なんてそこらじゅうにあったから蚊もずいぶん沢山いた。悪童たちと遊んでいると二の腕に蚊に食われた薄肌色のボッチが何コもできてて、ボリボリ掻きながらその数を競い合ったりしたものだ。喰い物が腐りやすいので蕁麻疹の痒みなんてのもある。オレは小学三年のときにクジラのベーコンをつまみ食いして(いまでは高級品だ)一度だけなったことがある。これは痒いというより、顔から爪先まで体中にできた赤い点々模様が気持ち悪かった。
 しかしなんといっても夏場の痒みの王者は、インキンである。原因は言わずと知れた白癬菌。肉体が大人へと変化するホルモンラッシュの時期に顕著で感染すると強い痒みをともなう。その痒みときたらハンパない。強いという形容だけではとても足りない。激しい、烈しい、厳しい、苦しい、痛い、辛い、切ない痒みだ。まぁ、なった者じゃないとわからないネ。オレは中二のとき、林間学校でサイキヒデオのパンツを拝借して罹ってしまった(インキンは誰かから移されるというマコトしやかな噂があって、オレの場合状況証拠からみてサイキのパンツ以外ありえなかった)のだが、ずいぶん悪戦苦闘した。
 インキンは、ただでさえ直接的な痒みが強烈極まりないのに、シュチュエーションというのがさらにそれを増幅させる。つまり、所謂、恥ずかしいところにできるものだから、どんなに痒くても人前でおおっぴらに掻くことができない。もちろん親や友人にもおいそれとは打ち明けることができない。畢竟、授業中も夕食のときも、ただひたすら耐えることになる。苦しいよ、コレ。特に、所構わず学生ズボンのポケットに両手を突っ込んでボリボリ掻いて周りに一発でインキンだとバレてしまったサイキとちがって、成績優秀、スポーツ万能、中学の三年間を通して学級委員長だったオレには立場というものがある。「掻きテェーっ! サイキみたいに掻きテェーっ! だけど掻けネェーっ!」周囲には平静を装いつつ耐えに耐えて、気も狂わんばかりに、シェークスピアのドラマの主人公のようにたったひとりで苦悶するのであった。
 そしてついに、冬来りなば春遠からじ、苦あれば楽あり、臥薪嘗胆と箴言の如く時を得たオレはトイレやもの蔭なんかに猛ダッシュ! おもいっきり、思う存分股間を掻きまくる。が、そのときの気持ち良さときたら! おお、神よ! 到底、言葉なんかじゃ表わすことができない。まさに天にも昇るよう。マスターベーションなど足元にも及ばない。オレはインキンになって幸せだぁ、と叫んでしまいたくなるくらいのもんである。ま、なったものじゃないとワカらないネ。飢えたことがなくドラッグをやったこともないオレが知り得る限り、最高の快感だナ。 
 それにしても、痒いところを掻いたときの快感というのはどうにもビミョーだ。感覚というのは、そもそも体が発するシグナルであろう。暑い、寒いといった自己が置かれている状況を示したり、痛い、苦しいといった自己の状態を示したり、美味い、臭い、重い、怖いといった自己が働きかける、あるいは働きかけられる対象の善し悪しを示したりするもので、つまりは恒常性の維持と、いずれ維持できないところから敷衍されるところの繁殖のための信号である。だから我々の行動というのは、煎じつめて言えばそれら肉体のシグナルへの回答であるということができる。代謝に必要な栄養供給=「ハラへったぁ! 吉牛いこう」、生殖の際の選択=「イイ女だなぁ。ヤリてぇなぁ」てな具合である。
 で、そういう、いわば肉体の声とでもいうべき感覚に対して、とった行動が適応であれば、痛みなんかはただ消えてなくなるだけだけど、なんだって痒みには快感という、さらなるシグナルが送られてくるのであろうか。空腹を満たしたり、寒いところで暖をとったり、危険を回避したときなんかも、それなりの充足感は顕れるけれども、インキンを掻いたときの快感とは程度も質も異なる。あの圧倒的な悦楽、陶酔、忘我、陶然、夢中、無我といった境地は、いったい何故に顕れるのであろうか。実際、電車やバスのなかでウンコを我慢するのはインキンの痒みに耐えるのとイイ勝負だが、脱糞にはあれほどの快感はない。というよりせいぜいがホッとするくらいのものだ。しかし、インキンの場合は幸福感すら感じるのである。致命的なダメージから回復するときに究極の快感が顕れるなら話はわかるけど、たかが白癬菌である。ちょっと股間を不潔にしていただけである。別に罹ったからといって命に別状はない。なのにあの至高のリターン。なにか理由があるんだろうけれどもいまのところわからない。
 わからないんだけれども、快楽至上主義のオレとしては、常態であの恍惚感に浸れれば他になにもいらない。中学のとき既にそういうフザけた考えが芽生え始めていたので、この幸せがいつまでも続きますようにと股間を掻きむしりながら祈っていたのだが、世の中とは残酷なもので、そうは問屋が卸さない。卸さないどころか利子をつけて返さねばならない。悦楽の赴くまま掻きまくった股間は、二次感染を次々におこし、もはやその秘密を隠しておくことができないまでに広がっていくのであった(プールの授業のときはホントに苦労した。てか、バレてたとおもう)。その両の内腿をジワジワと寝食していく様は、ガン細胞もかくや、といったところで不気味なことこの上ない。ヨード―チンキやキンカンを塗ってナンとか自力で拡大を喰い止めようとしたのだが、結局、親にうち明け病院へいったのであった。
 歳を取ると体が安定するというか、おとなしくなってしまい白癬菌も寄りつかない。そのかわり老化現象でもってここ数年は冬になると乾燥肌に悩まされるようになった。定規で背中をガリガリやっていると、一時、至福は訪れるものの、あの夢見るころにみた、それこそ夢のような世界には到底およばない。考えてみれば、インキンだけではない。天地真理もビートルズも隣のクラスの好きになった娘も、みな夢の世界だった。多感であることは、なんと幸福なことであろうか。もう一度、あの夢のような世界を呼び戻すことはできないだろうか。そのためになら、オレはインキンに罹ることも厭わない。


                        11・09・01
 
自己陶酔は ええものや
 毎年桜の季節に誕生日を迎える。辛かった冬が去り、天国にいるような心持ちのする美しい季節だ。まるでオレの誕生を自然が祝福するかのように、晴れわたった空で鳥たちが囀り、あちこちで花々が咲き始め、暖かくなった風がすべての命に呼び掛けるようにそよぐ。この世に生まれたオレはきっと、わぁーい、この世ってなんて気持ちいいんだろ、と感激したにちがいない。でも今年はちょっと違う気分だ。桜の木の下でバカ騒ぎするヤツはおらず、のほほんとした空気の中にちょっぴり放射性物質なんてヤバイものが混じってるかもしれない。
 やはり、地震について書かざるを得ないか。
 今回の大地震そのものについては、例によってマスコミが好き勝手に騒いでいるだろうから(それが仕事だ)触れずにおく。どうせ肝心要の情報についてはこちらに伝わってはこない。自然現象だから仕方ないし、被災した人には悪いけど、その当事者でなかったことを神に感謝するだけだ。
 で、話は東京である。東京を直撃する大地震は来るか? 関東大震災クラスの大地震は五十年周期でやってくる、なんてことがもうだいぶ前から言われつづけてて、いままでにもちょっと揺れの大きいのが来ると「あっ、これかな?」とか「いよいよ来たか?」なんておもったりしたけど未だ来てない。今回さすがに「とうとう来た!」瞬間おもったが、大正十二年九月一日十一時五十八分三十二秒からかれこれ九十年経ったいまも東京は無事である。
 実はもう来ちゃったんじゃないだろうか、関東大震災その二。プレートテクトニクス理論が正しいとすれば(正しいとおもう)フィリピン海および太平洋プレート、それに北アメリカプレートがユーラシアプレートへ沈降あるいはトランスフォームする際に蓄積されたエネルギー(摩擦エネルギーだとおもう)が放出されるときにおこるのが日本の地震である。巨大地震の場合、この蓄積エネルギーが畜まりに畜まってそれがいっぺんに放出される。それが過去のデータから約五十年周期というわけだ(今回の大地震はプレートの変動の仕方が特異的だった可能性も考えられるが)。この「いっぺんに」というのがミソ。東京周辺の地面の下では地震エネルギーが小出しに放出されているとしたらどうだろう。九十年どころか半永久的に東京は巨大地震には見舞われないことになる。何故、東京近くの地震エネルギーが小出しに放出されるか。それは東京が重たいからである。
 もうタイトルもいつ読んだのかも忘れてしまったたが、小松左京の小説にこのアイデアがでてくる。記憶も曖昧だがたしか宇宙人が地球を観察してて、東京は地震地帯にあるけれど地上の建造物が重たいから巨大地震はおきない、みたいなことが書かれてたとおもう。わずか二行ほどで話の本筋とは関係がなく、ナンだってここでこんな話がでてくるんだろうと首を捻りたくなったが、小松左京はどうしてもこれを書きたかったのだろう。ナンか妙に心にひっかかって、もう何十年にもなるが、ふと思い出しては、そんなこと有り得るだろうか、と考えてみたりしていた。で、有り得るんじゃないだろうか、というわけである。
 我々がいる地面、つまり地殻はマントルというものの上にのっかっている。のっかっているというより比重の大きいマントルの上に浮いている(アイソスタシ―という)。当然、マントルは硬い物体なのだが、地球の中身はグラグラ煮たっているので、地学的スパンの時間においてはお椀の中の味噌汁みたいな流体としての振る舞いを見せる。これがマントル対流である。だから海に浮かぶ小舟同然、地殻がゆらゆらするのは当たり前で、海が荒れてると転覆したりもする。だけど船がさざえを採るような小さな木船ではなく、500メートルもあるタンカーだとしたらどうだろう。タンカーに乗ったことはないが、大抵の荒波にはびくともしないんじゃないだろうか。
 要は、鉄の重さである。現在日本の鉄鋼石は、ほぼ全部輸入で年間1億トン以上らしいが、精製するからそのすべてではないにしても毎年々々相当な量の鉄をよそから持ち込んでいることになる。つまり、毎年々々日本は重くなっている。それは都市部に集中するんで、いま東京を見渡しても、鉄、鉄、鉄だらけだ。いったい何トンくらいなんだろうね。大正時代はもとより小松左京が、いはば東京大地震不可論を発想した時点とくらべても、いまの東京はケタ違いに重たくなっている。
 だから地殻が摩擦エネルギーを解放しようとしても、頭が重たいものだから「いっぺん」にはできない。例えは悪いが、周りにだれもいなければおもいっきり屁をひねれるが、満員電車のなかでは周囲の目を気にしてちょっとづつ尻の穴をゆるめるようなものである。 地殻変動のような人知の及ばないエネルギーのまえでは建造物の重さなんてちっぽけなもんだというかもしれないが、東京の重さというのは案外バカにできないんじゃないだろうか。
 今度の地震で沢山の人が死んだ。オレは新聞もテレビも見ないので詳しいことは知らないが、二万人規模らしい。世界の一流国で戦争もしないのにそれだけ人が死ぬのは日本だけだろう。だけど天災じゃ、しようがない。しようがないとしかいいようがない。しょうがあるのは、東京の重さや原発やテロだ。先日、立ち入り禁止になった福島の原発周辺の映像を勤め先のテレビでチラっとみたが、人っ子一人おらずシンと静まり返り、さながらカーソンの「沈黙の春」そのものでゾッとした。いつか、想像を絶する大地殻変動が日本を襲ったとき、生き残った人が目撃するのは文字どおり山となった鉄とコンクリートの瓦礫とその下に埋もれた人の死体であり、目撃できないのは空気中の放射線物質とそこから先の自分を含めた命あるものの姿だろう。
 そういえば、今回の地震で消し飛んでしまったが、今年の大相撲春場所は、例の八百長騒ぎで中止であった。つまり横綱が土俵入りをしてない。国家安寧、悪気鎮静のため横綱が大地を鎮めるという神事としての大切な儀式を、この春はしていない。オレは神も仏も信じないんだが、そういうところは気になるという矛盾した質で、実は、ナンかイヤな予感がしていた。石原都知事が「天罰だ」と発言したらしいが(詳細は全く知らない。非難轟々だったと聞く)、ここだけの話、オレもそうおもっている。
 地震も花も同じものだ。地震も青空も風も鳥も山も河も同じものだ。ただ一人、人間だけが同じじゃない。同じじゃないから、それらが愛しいし苦しいし失えば悲しい。まったくもって人間とはやっかいな生きものである。
  
  月やあらぬ
春や昔の 春ならぬ
 わが身ひとつは
     もとの身にして      

2 春なのに

Monologue2

To Monologue1

1 温故知新

ぼくの好きなのは孤独
きらいなのも孤独だ
― 湯川秀樹
11・05・01
― 在原業平
― 三島由紀夫

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