1980年公開「影武者」での主役降板騒動は、
勝新太郎を語るうえである意味非常に重要な事
件ではあった。映画のメイキング・フィルムを
録画したものが手元にあるが、勝とクロサワの
言動は、映画に対する姿勢の違いが垣間見えて
興味深い。
 画家を志していたことからもわかるように、
クロサワにとって映画は芸術である。徹頭徹尾
自分だけの美意識、特に形式美をフィルムとい
う動くカンバスに描いていく。
 妥協は一切しない。主役はもちろん画面の端
にいるエキストラ、時に、雲や川にまでダメ出
しをする。


     「あの雲をどけろっ!!」


 なべて創作をする人間は、程度の差こそあれ
エゴイストであるものだが、なかでも画家とい
う人種はその究極といっていい。それが映画製
作のような共同作業をする場合、ほとんど暴君
か独裁者にならざるを得ない。クロサワが「天
皇」と畏れられ、「完全主義者」と謳われた所
以である。
 
 
     「天皇? 奴隷ですよ、
      映画という芸術のね」


 そして、芸術至上主義の独裁者にとって役者
は、たとえ国際級の主役といえどもただの道具
、絵筆や絵の具でしかない。


 勝はどうであろう。勝は監督もするが、本分
は役者である。ここにクロサワとの決定的な違
いがある。
 役者は、それを観る者がいてはじめて成立す
る。だから、勝が演出をするとき、キャメラを
覗く彼の目線は、自分を観る、という以外のな
にものでもない。思うとおりに自分が撮れてい
るかどうかという、エゴイストというよりはナ
ルシストに近い。
 おそらく、オーケストラの指揮者は、ゲネプ
ロで自分の造る音が完成されていれば、コンサ
ートをどう評価されようが構わないのにちがい
ない。
 勝はシンフォニーの第一バイオリンである。
あるいはソリストでありコンチェルトのピアノ
奏者である。だから指揮者のOKよりも観衆のス
タンディング・オ―ベーションが欲しいのであ
る。
 エゴイストとナルシストとの間の距離は、そ
のまま「芸術」と「興行」とのそれと重なって
いったのかもしれない。

   「落語なんてぇものは、客がいなきゃ
   ただの一人言だからね」
              −立川志の助


 勝新太郎は才能と運に恵まれた生まれながら
の名優である。ジョーン・バエズの言葉を真似
すれば、必要とされる時代に登場し、必要とさ
れる場所で、必要とされる役を演じた。
 勝は、決してスマートではない自分のキャラ
クターを十全に理解していた。
 目から鼻に抜けるようなハンサムではない。
知的な雰囲気も持ち合わせてはいない。市井の
人として物語るには怪異に過ぎる。ちょっとユ
ーモアのあるアウトローこそが自分の真骨頂で
あることを知りぬいていた。そこに勝の美学、
というよりリアリストとしての顔を見ることが
できる。
 もちろん、観る側が自分に何を期待している
のかを良くわかっていた。そして、スタンディ
ング・オ−べーションに応える如く、またアン
コールに応ずるが如く、映画を離れた実生活に
おいてさえ、なにかと世間を騒がせては「勝新
太郎」を演じてみせた。

 さて、座頭市の「白めし」である。これは酒
や女や博打同様、演出上必要だった単なる小道
具なのかもしれないが、案外、勝は本当に腹ペ
コで、座頭市として演技をしながら「白めし」
をかっ喰らっていたのかもしれない。
 結局、映画俳優兼監督、勝新太郎は、その生
涯をとおして「勝新太郎」を演じきったのであ
る。
        17・9・6 (亡き母に捧ぐ)

「メクラだとかカタワだとかいわれんのに

文句はねぇんですよ、ほんとにそうなんだ

から。でもね、メクラのくせに、カタワのく

せに、っていわれたんじゃあ、黙ってるわ

けにいかねぇんで」

 うどんもウマそうだ。

 ブルース・リーも「座頭市」の大ファンだった。その
アメリカ時代に西海岸のどこかのスクリーンで観ていた
のだろう。武術家で俳優で、また同じ東洋人でもあった
リーは、きっと特別な想いを胸に「座頭市」を観ていた
に違いない。1940年生まれのリーは、終生日本人を嫌っ
ていたが、宮本武蔵と勝新太郎の二人だけは敬慕してい
たという。実際、交流もあったようで、自分の映画に勝
プロの俳優を使っていたそうだ。また、リー自身、盲目
の武術家を主人公にした映画を作ろうとしていたという
話もある。

 

    Don’t think !  Feel !
   (考えるな! 感じるんだ!)
              
             −「燃えよドラゴン」

− Movie 特別編 −

                  カツシンは 食べながらセリフをいう役者である

 本人はイイかもしれないが、周りは迷惑するだろう。
 盲目という役どころを演じて、観る者にこれ
が芝居か、とおもわせるほどに勝は見事。
 白い眼球、まばたき、音を探す頭の動き、手
探る仕草、歩き方、笑い方。顔の造作が大きい
ために、それらの一つ一つが自然なデフォルメ
となり微妙な強調を生んでいる。見事だ。外国
人はハンディキャッパーが俳優になったとおも
ったのではあるまいか。
 そして仕込み杖から一閃、居合抜きの妙技に
は言葉を失う。ただもう、うーむ、と唸るしか
ない。特に、目にも止まらぬその早さ。抜いて
から鞘に収めるまで一秒とかかっていないだろ
う。CGはもちろん早回しも代役も一切なし。芝
居という閾値を越えた驚異のスピードである。
ブルース・リーも技とスピードでアメリカ人を
熱狂させたアクション・スターだったが、彼の
早技と例の怪鳥音は間違いなく「座頭市」から
ヒントを得ている。
 さらに美しさ。一挙手一動にそこはかとない
日本美が醸し出される。正坐したときの凛とし
た姿など、これはもう、芝居というより時代が
つくるものだから、アイドルやタレントが稽古
してできるものではない。立ち回りの決めの部
分の美しさは、おそらく歌舞伎や日本舞踊の素
地があるのだろう。

座頭市と白めし

 健さんは丼飯など食べない。というより食べない。この写真
のようにカレーライスを注文してもスプーンでいじり回すだけ
で、結局「オマエ、これ喰えや」と舎弟にあげてしまう。(同上)
 したがって、健さんは食べる演技がヘタである。「幸せの黄
色いハンカチ」の冒頭で、カツ丼を食べるシーンがあるが、勝
とは比較にならないほどヘタクソである (もっとも、高倉健
は、存在していることに価値のある形而上的俳優だから、リア
リズムとは無縁、スタニスラフスキー理論などお呼びでない役
者でイイのである)。

カツ丼の正しい食べ方。さすが勝である。(「無宿人」より)

 そして、にぎりめし。海苔を巻いた “おむ
すび=@ではなく、白いにぎりめし。シャケも
オカカも、梅干しすら入ってない塩だけのにぎ
りめしである。
 携帯食であるにぎりめしは流浪する者にとっ
てなくてはならないアイテムであろう。それが
座頭市や紋次郎、山頭火といった、まっとうな
生計をもたない、また帰る場所もないアウトサ
イダーにとっては、ある種格別な味となる。
 貧乏の味であり施しの味。あるいは、安堵の
味、感謝の味、悔恨の味、諦念の、寂寥の、そ
して想いでの味。そんな、つまりは放浪の味に
は、海苔もフリカケもむしろ要らない。
 およそコメを使った料理の中で、塩のにぎり
めしほどウマいものはないのではあるまいか。
炊いたコメを両の手で塩をまぶして握っただけ
の料理である。いや、料理とさえ呼べないかも
しれない。
 であるが、歩き疲れた時分どき、お日様の下
で道端に腰を下ろした、やや丸顔の勝が、あん
ぐりと口をあけてムシャ、ムシャと頬張るにぎ
りめしを観ていると、サラヴァンや魯山人が何
と言おうと、これこそが美食の極致であると言
いたくなってくる。

 茶碗めし、にぎりめし、とにかく白めしをよく食べる。
冷や飯なのでハフ、ハフ、ハフという食べ方ではない。大
口あけて、これを先途とばかり詰め込められるだけ中に詰
め込む。もちろん早喰いである。胃が丈夫でないととても
できない。

 そのような役者としての勝の才能には、ただ
もう絶句するしかないのだが、もうひとつ、そ
の魅力を語る上で欠かせないのが、食事のシー
ンである。勝新太郎ほど飯をウマそうに食べ
る役者はいない。
 シリーズをとおして食べる場面は多い。なか
でも白めし。その食べ方は豪快、というより、
盲目でアウトサイダーという設定上、遠慮がな
く目的本意で、うらやましいほどに自己中心的
である。
 茶椀飯は必ず大盛。その傍若無人な喰いっぷ
りは、まず、おかず(タクアンか目刺し)を少
しかじったかかじらないかのうちに、まるで腹
を空かせたイヌイット犬の如く鼻から茶碗に突
っ込み、猛然と飯をかき込む。それはもう本能
まる出しのあられもない姿で口いっぱい飯でパ
ンパンに膨らむまでかき込む。そんなに詰め込
んだら噛めないだろう、と半畳をいれたくなる
ほどだ。
 案の定、飯が口からはみ出てボロボロこぼれ
たりするのだが、本人はそんなことおかまいな
し。味わうなんて二の次三の次、はやいとこ碗
の中身を自分の腹に入れてしまえとばかりに息
もつかない。
 しかもその状態でセリフを言ったりなどする
と(勝は食べながらセリフを言うことが多い)
当然ものすごいことになる。セリフと一緒に、
唾まみれの飯粒をショットガンのように周囲に
撒き散らす。行儀もヘッタクレもない。
 この、餓鬼のごとき自由奔放な暴れ喰い。見
事だ。いっそ惚れ惚れする。第一、ウマそうで
ある。できることならこんな風に食べてみたい、
そんな気にさせられてくる。
 この座頭市の(というより勝の)後先考えな
い飯喰う流儀が、白めしを一番美味しくいただ
く食べ方なのではあるまいか。



aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa

黒澤−「監督は二人要らないよね」 


勝 −「オレを上手く料理してくれる
    監督がいないんだ」

 青空とにぎり飯は切っても切れない。

      カツシンは なぜ食べるシーンを撮ることに

      こだわったのであろうか

 珍しく朝餉のシーン。炊きたてのコメは「めし」で
はなく「ごはん」である。当然、湯気も上がっている。
勝の演出にぬかりはない。

 お膳、おひつ、一汁二菜、賄い婦。完全なる形式美。

山下清ではない。座頭市である。それにしても坊主頭と
にぎりめしはよく似合う。

 「魚の干物ですか? それに…ミョウガのみそ汁…あ、わさび漬
け、めしのうえへ のっけて…へへ、よござんすね…へへ」  
 セリフもイイ。ドスの利いた少しべらんめぇの重厚な声で、
観ているものはきっと同じものが食べたくなるはずだ。

 口の周りやしゃもじに付いた飯粒が観る者の食欲をそそる。
昔の人はこれをきれいに食べた。今どきの “ごはん粒の付か
ないしゃもじ” など小賢しい。

 にぎりめしはただの塩むすびである。大抵、竹の皮に3
個包まれていて、たまにタクアンが2、3切れついている。
袖触れ合う人に分けてあげたりもする。指についた飯粒が
リアルだ。当然、丁寧に食べる。

 にぎりめしは、握る大きさによって個性がでたりもする。
しかし、こんなに白めしばかりで脚気にならないか心配であ
る。

「おれたちヤクザぁな、御法度の裏街道歩いてん
だぞ。いわば天下の嫌われもんだ」

 盲目のヤクザで居合抜きの達人。「座頭市」
は、このムチャクチャなキャラを設定した時点
でほとんど物語は出来上がっているといっても
過言ではない。
 その正体、あるいは実力を隠して平身低頭す
る主人公が、最後に悪人どもを片っ端から倒し
てしまうという構図は「遠山の金さん」や「水
戸黄門」にも見て取れるものの、盲目≠ニい
うキャラには遊び人≠竍越後の縮緬問屋
さらには丹下左善の片目片腕≠加えても尚
到底及ばない強烈さがある。というより盲目で
あることそれ自体がすでにドラマツルギーを内
包している。ふとどきを承知でいえば神秘的な
魅力がある。
 しかし、「座頭市」がアメリカの場末の映画
館の黒人たちに快哉の大はしゃぎをさせるまで
に作品として成功している要因はキャラ設定だ
けではない。なんといっても大きいのは勝新太
郎の演技とパーソナリティーである。

 もう30年以上前になるが、ニューヨークに住
んでたことのある知り合いから、こんな話を聞
かされたことがある。
 ダウンタウンではクロサワやオズなんて誰も
知らない。だけどザトーイチ≠ヘ誰もが知っ
てた。誰もが知ってる、おそらく唯一といって
いいくらいの日本の固有名詞だった。
「深夜の映画館でさ、カツシンが多勢相手にピ
ュッ、ピュッって居合抜きしてさ、一瞬間があ
ってから全員バタバタって倒れるだろ?そうす
るともう館内は黒人どもの歓声と指笛の嵐さ」